ヘキサムーン
 ここ数日天蓋を覆っていた雨雲もようやくその役目を終え、やっと出来た雲間からは黄金の満月が久方ぶりに姿を現して煌々と輝く時分。夜の始まりにつけて、これ以上客を待っていても仕方なかろうと、店を閉めようと思っていたそんな頃合いに、丁度店の扉を開く者の姿があった。
 どうせならもう少し早く訪れてくれれば、本日最初で最後の客として丁寧に扱う事も出来たし、もう少し遅ければ閉店時間を盾にして閉め出す事も出来たのだが、見事に中途半端で何とも間の悪い事だ。僕は内心でそう嘆息しながら、その空気を読まない客に向かって視線を向ける。
 するとそこにいたのは、珍しい人物。正確には、この夜も更けようとする時間帯に、そんな遅くにこの香霖堂を訪れるのが珍しい人物だった。あまりの珍しさに、僕は最初よく似た別人かと思ってしまったほどだ。
 香霖堂の入り口を開いたまま所在なさげに佇んでいるその姿。普段通りの紅白の巫女装束に身を包んだその姿は、紛うことなく博麗霊夢その人だろう。ただ、姿はいつも通りなのだが、その身に纏う気質に普段の晴れやかさは感じられなかった。まるで分厚い曇り空を思わせるかのように。つい先程まで空を覆っていた雨雲が、人の姿を取ったのかとも思える程に。
 そう、先程僕が彼女を別人と見間違えた理由の一つに、その気配の暗さがあった。
 彼女はいつもならば、それこそ太陽と同質の明るさを備えている。目に映る全てに、その力を平等に振り下ろす太陽と同様の。それは時によってはとてもありがたく、時によってはとても辛い事だろう。
 誰にでも平等に接するという事は、誰でも彼女と親しくなる機会が与えられるということでもあるし、誰も彼女にとって特別な存在にはなり得ないという事だ。
 そういう意味では、まさに太陽と同じ激しさを霊夢は持っている。もしも太陽がいなければ、たちまち地に住まうもの達の身体は凍り付いてしまう。かといってその暖かさを我がものにしようと手を伸ばしたとて、決して手中に収まる事はないのだから。太陽は、遥かな高みよりただ一方的に、その激しい眩しさを押しつけてくるだけなのだ。
 しかし、今の霊夢にその激しさはなかった。ただ、浮かぬ顔でこちらの様子を伺うばかりだ。
 その姿はいつもの超然とした佇まいとは異なり、本当の彼女はただの少女なのだという事実、太陽の眩しさに目が眩んでいたが為に隠れていた事実を、僕に実感させた。
 フムン。霊夢は一体どうしたというのだろうか。いや、何かがあったことは間違いないと思うのだが。何かがなければ、彼女がこんな時間にここに来るはずがないだろうし。
 通常、霊夢が香霖堂を訪れる際は、太陽が空にてその威光を振りかざすようになる頃合いに現れ、太陽が山間に隠れるようになると帰っていくのだ。まるで彼女自身が常に太陽と共にあるかのように。
 よっぽどの特別な理由がない限り、霊夢が夜に香霖堂にいる姿を僕は見たことがない。
 これが、先程彼女を別の誰かと勘違いした理由その二だ。霊夢がこの時間にこんな所にいるはずがないという先入観が、僕の目を曇らせたのだ。
 しかし現在霊夢が僕の目の前にいる以上、これを事実として認める他ないだろう。いや、まぁ、僕が何者かに化かされているという可能性もなきにしもあらずなのだが。話によると、つい先日霊夢の姿に化けた妖怪が出ていたようだし。
 僕はもう一度、霊夢らしき少女の姿をじっくりと眺める。そこにあるのは相変わらず曇天のようにはっきりしない表情で、いつもの快活さは微塵も伺えない。心を神社にでも置いてきてしまったかのようだ。姿形は僕のよく知る霊夢そのものなのだが、表情一つでこうも印象が変わるものだとは。そう短くない付き合いをしている僕でさえ、霊夢のほんの一面しか知らなかったのか。彼女の憂いを秘めた顔は、そんな事を僕に気付かせる。
 さて、僕は一体どうするべきだろうか。そう自問してみるも、答え自体はさして悩むこともなくすぐに出てくる。本人にせよ違うにせよ、このような不安そうな面立ちの少女を放っておくという事は、僕にはどうにも心情的に出来なかったからだ。我ながら、甘いとは思うが。
「あー……霊夢、こんな時間にどうしたんだい?」


(約1/3)