ようようゆめみし

***


 そうだ、もちろん我々の中でも、肉体と血に十字架を背負わせよう。
 我々の心が善になればなるほど、つらさも増すのだ。
 ――マタイ受難曲 第 II 部 第56曲


***



 働きがあって形がないもの。
 形があって依りどころとなるもの。
 自己の存在においてどちらも大切となるもの。
 ――魂魄。



***






 生命の色、それは赤に例えられる。
 脈動する血の色。皮と肉によって薄く色付くそれは、取り出してみれば鮮やかな色彩だった。
 赤、命の色、そして、炎の色。


 燃えている。火のはぜる音と、焦げた臭いが煙となって空間を満たしていた。
 故意に燃やされた物では無い。来訪者は、それを意には介していなかった。


 迎え撃つは、刀を構える男性がひとり。
 彼の傍らには、力無く身体を横たえる女性の姿が在った。
 女性の身体には傷のような物は見えず、眼を閉じた表情は、火に煽られた色合いの中でも穏やかに見えた。
 男は知っていた。生涯の伴侶であるその女性には、すでに命の灯が灯っていないことを。
 炎に包まれた部屋。襖一枚を隔てた所に、幼い姿の少女が存在する。
 少女は、目の前に展開される光景に感情が追いつかず、処理できない網膜の情報はただ少女の頭に蓄積されていく。


「――早く、お嬢様――!」

 少女の耳がそれを拾った時には、自身の身体が何者かに引っ張られた感覚を得た。
 そして、彼女はそれを確かに見た。
 燃え盛る中、刀を振りかざす男性――少女の父親と、取り巻き踊るように飛ぶ、煌めく蝶の姿を。

 それは、ある家族の日常が崩壊した夜。
 幸福に無自覚で在れた日々は、二度と戻ることは無い。


***


 夜道。獣道と呼ぶに相応しい、人によって整地されていない路をふたりの人間が進んでいた。
 縦に列を作る格好となったそれの先頭を行くは、程ほどの体格と顔立ちを持った中年の男であり、男は後列の少女の手を持ち、引っ張るように進む。
 手を掴まれた少女は、ただされるがままに感情の灯らない瞳を湛えていた。
 全身に力が入らずに、崩れるように足がもつれる。
 夜通し走り続け、逃げ続けたその距離は。幼い身体が悲鳴を上げるには充分すぎるほどで在った。
 男の格好に比べれば、少女の着物は織りの意匠や生地から、相当上等な物であることが見受けられ、ごく辺り前に日の下で見ることが叶うならば、名のある家の息女であることを連想させることはそう難しいことではないだろう。
 しかし、その身にはそうした外観に見合わず、持ち主の身長を優に超す長さの鞘に収められた刀が背負われていた。
 少女が扱うに不釣り合いなそれは、同行者である男の物にも見受けられない。
 実際にその刀は、少女の父によって渡された、家宝である言われを持つ物だった。
 男は少女の変化をつぶさに見て、癇癪を起こすかのように声を上げる。

「さっさと歩け!」

 歩みを止め掛けた少女の腕を、強引に引っ張ることで男は彼女の転倒を防いだ。
 振り返る男の眼には確かに少女の姿が映ってはいたが、彼はそれよりも先の暗闇に視線が寄ってしまっていた。

 男は、ある屋敷の使用人として雇われ、己の身の丈に合った生活を享受していた。
 それなりの名家だという当主やその奥方の人柄も穏やかであり、なんら不満を感じることは無い。
 当主には可愛がっていたひとり娘が居り、その子も少し気難しい面も在ったが、男にとっては友好的な関係を築いていた自負が在る。
 家の者も、使用人である男にも不足の無い毎日。それは突然に変容を迎えた。


 『それ』は、音も無く表れた。
 正面から堂々と、まるで親しい者に会いに来るように、気付けば男が番をする玄関の前に居た。
 こんな夜に来客とは珍しいと男は当主に報告へと向かい、当主の反応は男の予想の範疇を超えていた。


 ――娘と共に、悟られぬようにこの家から出るように。

 その命令にも似た指示は、男の懐に入れられた少なくは無い報酬金を渡されたことにより、内容の是非を問うよりも早くふたつ返事で返す結果となった。
 だが、寝室に娘の姿は無く、男が少女を発見する頃すでに屋敷には重篤な襲撃の痕を残していた。
 僅かに開いた襖の前に立つ少女は、両腕で抱えるように鞘に収められた刀を持ち、焦点の合わない眼は、何かを見ていたことだけを男に知らせる。
 瞬間、恐怖が男の心を支配する。少女は何かを見つめ、そしてそれは火に巻かれたこの惨状を巻き起こした原因そのものを捉えているように思えたのだ。


 だからこそ男は、その得体の知れぬ物から逃げ出し、最後となった当主の依頼を一応の形でこなすこととなったのである。
 結局、男は知ることは無かった。
 男と少女以外の屋敷に居た者全てを死に誘った正体が、彼の前に現れたあの来客であると言うことに。

「くそっ!」

 毒づき、取り除くようにつばの固まりを地面に吐きだす。
 ただ屋敷から逃げ出した所で、追手の存在がこちらに気付かないという保証は無い。
 ましてや、夜も更けたこの時間では、他の人間に保護を頼むこともままならないであろう。
 そしてただ道を進んだだけの結果は、男が今何処に居るのかと言う、必要最低限の情報さえも奪い去っていた。


 男の意識は混乱によって支配されていた。
 現状を判断すること、指示されたこと、何を優先すべきであるか、それらの要素のかけらが、彼の中で渦巻く。
 野犬の遠吠えらしき音に身を竦ませ、腕を握る力は自然と強くなる。
 このままでは、あの屋敷を襲撃した奴に追いつかれる前に、別の者に襲われる可能性が高い。


 男の頭に、とある存在がよぎる。
 夜に生き、人の血肉を喰らう者、すなわち、妖怪。
 そうでないにしろ、飢えた獣の群れにでも眼を付けられれば、荷物を持った上に武装しない身ではひとたまりも無い。


 いや、そうでは……武器が無いわけでは――
 男は、少女の姿を改めて眺める。
 まるで周囲に何も無いから眼をくれないように、少女は茫然とそこに立ちつくしていた。
 ただ、その腕には変わること無く刀が在り。
 男はその刀を手に取ることを選んだ。
 太刀と呼ぶにはやや長すぎる鞘に刃の無い刀が入っていると言う訳では無いのだろう。
 拵えには特別な装飾は無いが、それ故に何か特別な、高名な鍛冶氏によって打たれた上等な物に男の眼は鑑定した。
 持ち手に手を掛ける。それだけの男の挙動に、少女は劇的な反応を見せた。
 それは、異常な状況に置かれて初めて発生した、少女の生の感情であった。

「嫌っ……これは、とうさまとかあさまの……っ!」

 拒絶の意思。受けた者は感情に黒々しい物が渦巻き、そして男は激昂する。
 無反応だった少女の手を引き、逃げる際に男は何度も励ましの言葉を掛けていた。
 当主がどのような状態に陥ったとしても依頼された以上は果たすべき責任を男は負い、それ以上に応えようとする義理も彼の中には在った。
 だからこそ、守るべき少女に対し、どのような状態であっても、彼は彼なりに少女を助けようと思い行動した。
 刀を抜くと言う行為も、本来は自分と少女の身をより安全にするための行為だと、男は確信を持つに至る。
 そうしてそのすり替えは、助けた恩を仇で返す生意気な小娘、という少女への認識を彼に確定させた。


 少女は何度も呟く。この刀は、両親から譲り受けた大切な物だと。
 男は何度も奪い取ろうと試みる。それが身を守るために最も必要なことだと。
 成人男性と二次性微前の少女では力の差は歴然としている筈が、執念で少女は奪われまいと必死に抵抗する。
 焦りと苛立ちを募らせた男は、ついに激情を言葉に載せた。この場で相手に最も深い傷を負わせる為だけに。

「お前の親はどっちもくたばったんだよ! お前はそれを見たんだろう!?」

 彼にとってそれは仮定を含めた嘘。

 少女にとっては――抗いようも無い事実。

 だらりと、少女の腕の力が抜ける。
 男はそうして容易く、少女から刀を奪い取った。
 刀は鞘から抜き放たれ、刀身の白銀が月夜に照らされていた。
 その在り様は、専門の知識が無くともそれが名刀だと男に理解させる。
 そして彼はその輝きに眼を奪われて、ある変化を見つけることに時間を要する。
 だがそれでも、少女の頬から一筋の涙が伝ってゆく様を、為した者は見てはいなかったのだ。

 こうして、彼は自らを守るための道具を手に入れる。そうすることで得た者は、僅かな余裕と思考の時間であった。
 極度の緊張状態が続いた彼は、もはや普段の精神状態ではなかったと言える。
 それは例えば、少女が抱いていた優しい使用人の姿は何処にも無く、ただ自らの欲求に動く獣に変容してしまったかのようであるかのように。

「そうだな……つまりこれを持つのを知るのは、俺とお前だけだってことだ」

 認識を反芻するように呟く者は、何処か虚ろな表情を湛えている。
 それはまるで、道を踏み外すと言う自覚を持ちながら、自らの行為を正当化する為の方便のようにも思える。

「ここまで逃がしてやった料金だ」

 男は、立ち尽くしたままの少女の肩に手を掛け、強引に押し倒した。
 痛みを身体が訴えるよりも早く、少女は男が差し出した手が害意を以って行われていることを感覚で理解した。
 少女の知る彼は、そのようなことを行う暴漢では無い。
 時たま遊び相手になってくれるような、優しいおじさん。それこそ少女が今まで積み上げてきた男への印象であった


 彼は、その屋敷に使用人として雇われてから、既に自身の半分以上の人生の時間を費やしていた。
 決して裕福では無いが、生活に不自由する程では無い。
 満たされているとも取れるその日々に、男は雇い主に要求するようなことは何も無かった。
 足るを知り、このまま生涯を迎える予測は今夜までの男にとって確かな現実であった。
 だが、現実は違う結果を残した。
 これまで住み慣れた屋敷は火に巻かれ、襲撃者の手によって生き残った者は恐らく零に近いだろう。
 当主のひとり娘を救出するまでに、男は幾度も人の死を目の当たりにする。
 彼が少女に放った嘘を含んだ言葉は、彼にとって予測でしかない。
 それは、彼自身の希望を載せた物だと言うことも、発した本人でさえ無自覚であった。


 そして男は、不意に手に入れた力に――刀その物に魅入られてしまった。
 武家の出身ですら無く、武芸を学ぶ機会を与えられなかった彼にとって生まれて初めて得た刀の感触。
 命のやりとりから外れ、安穏たる日々を享受してきた者にとって、他者を一方的にねじ伏せることを可能とするそれは、人を容易に狂わせる。


 少女は必死に抵抗を見せる。
 着物をはだけさせようとする男の手が何を意味するのか彼女には理解出来ない。
 ただそれが、覆い被さる彼の顔から恐ろしい物だと少女に悟らせた。
 手を振り上げ、引っ掻き傷を男に与える。頬の肉を抉られた男は僅かに呻き、振り回した足がぶつかる。
 刀を取りこぼしたことに気を取られ、少女は彼から離れる隙を見つけ出した。
 身体を転がし、這い付くばった状態から身を起こして少女は駆け出した。ただ恐怖に駆られて。

「このっ……ガキが!」

 露わに晒されたままの感情は、そのままの意味を言葉となって紡ぎ出される。
 悪態を付き、僅かに離れた少女を追いかける男に、後ろめたさも躊躇いも存在はしない。
 ただ彼の刹那的な欲求を満たすが為、男は少女を物として扱う。
 男の中で眼に映るそれは、恩義を受けた当主の娘であることを理解している。
 故に、彼の行動の意味は、別の意味を持ち得ていた。
 使用人としての誰かに使われるだけの立場から、自身の価値を自ら決める為に必要な儀式のようであり。
 その為に、彼は少女が持たされた名刀を奪う必要が在った。
 少女を蹂躙することで、よりその実感を高めようとする。
 ただそれだけの為に、男は彼を手に掛けようとしていた。





 走り出した背中を、男は追いかける。
 意識が行動に反映される前に、男の身体は異常を感知する。
 身体が示した反応は、熱さだった。
 痛みへと認識を改めるに、彼は自らの胸元から突き出た『それ』を見つける必要が在った。


 脊椎を突き抜け肋骨を砕き肺を穿ち脂肪と筋肉を貫き。
 食道を通して溢れだした自らの血は、吐血となって地面を濡らす。


 彼は何者かに背後から突き刺され、致命傷を受けていた。そう自身を認識する前に、喉に歯を突き立てられ。
 上下が反転した男の視界に、先程自身が手に掛けようとした少女の姿が映る。
 少女の瞳に在る恐怖を読み取ることが出来た男の頭はそれを最後に、全ての機能を停止させた。

「――ごちそうさまっ」

 胴と離れた頭部を踏み抜き、『それ』は威勢よく声を上げた。
 弾みのある、愛嬌さえ感じさせる声は、幼い子供のそれを思わせる。
 声の主は、その声に違和感さえ与えない人間の女の子の姿をしていた。
 着物とは違った、海を経た国に在る洋服を纏い、眼や髪の色もおおよそ人らしくは――この国の人間ではあり得ない彩度を湛えていた。
 少女は、それが人喰いの妖怪だと言うことに、少しでも気を抜くと忘れてしまいそうになる。
 だが、少女は前に立つ女の子を見て認識を改める。
 返り血に塗れ、服と口元を汚した妖怪の姿を。

「それと」

 やや舌っ足らずな言葉で、女の子は少女を指さす。
 口元を服の袖で拭い、表れた口は歪んだ笑みを表していた。

「いただきますっ」

 嬉しそうに、楽しそうに妖怪は駆け出した。
 その手が少女の首を捕えるより早く、少女は身を転がすように回避を試みる。
 逃げようとする相手に対し、妖怪は遊びを楽しむように笑い声を上げた。
 そのまま、勢いを殺さずに方向を変え、最短の距離で獲物へと接近。
 追いつかれる直前に、少女は着物の裾に足を取られ、地面に身体を叩きつけた。
 影に覆われ、自分を捕えようとする者がすぐ傍に存在することを少女に悟らせる。
 振り返り、仰げば妖怪の姿があることだろう。
 確認が出来るのならば、その瞬間に少女は男と同じような末路を辿ることも。


 解らない。どうして――私は、こんな所にいるの。
 かつて物語として聞かされた妖怪のようなおぞましい姿を為していなくとも、その膂力は人を遥かに超え、残虐な存在で在ることには違いが無い。
 そうであるならば、あの時、屋敷で少女が見た者は。


 両親を手に掛けた、触れれば死に誘う蝶を従えた、あの――姿は。
 少女は、誰よりも早くとせんが為に振り返る。
 意図したわけでは無い。まったくの偶然によって、その手の届く範囲に、刀が落ちていて。


 少女は、食欲を満たそうと飛びかかった相手に対峙し、握りしめた剣を前に突き立てていた。
 不釣り合いな大きさも、力に見合わない重さも少女の障害には成り得なかった。
 そうして、少女は血を浴び、生き返る。

「あれ? あれれ」

 不思議そうに、妖怪は首を傾げる。
 小さな間違いを犯し、原因が解らないだけの、無邪気な女の子の顔を示している。
 胸部を深く穿ち、血を滴らせる自身の姿では無く、少女を見つめて、妖怪は呟いた。

「あーあ……おいしそうな人間かと思ったら。そうじゃなかったかー」

 ひどく面倒そうな表情を見せて、妖怪の周囲に闇が展開される。
 黒を塗りつぶしたように暗闇が妖怪を包みこみ、それが晴れた時には、妖怪の姿は消えていた。


 後に残されたのは、肉片と変わり果てた成人男性の身体と、幼い少女。
 握りしめた刀が重たくとも、少女はそれを手放すことが出来なかった。
 震えた手が、剣先を揺らす。
 やがてそれも収まり、投げ出された鞘を手に取った少女は、自らの服の乱れに気にも留めないように、歩き出した。
 あてども無く歩を進め、間近に見つめた死の瞬間を何度も頭の中で再現しながら。


***


 少女は妖怪の血を浴び、生を掴み取る。
 二本の足は、あても無く土を踏みしめる。
 かつて彼女が住んでいた屋敷へ戻ることは無かった。
 帰る為の道しるべも無く、行動するに至るまで思いつくことも無い。だがそれは、少女にとってどうでも良いことだった。
 それからの日々を少女は覚えようとはしていない。
 ただ剣を振るい、命を繋げる欲求に従う毎日が在る。
 少女にとって自分の生の意味は、身体の要求によって与えられていた。


 死にたくない。だから殺す。
 斬る
 嬲る
 突き立てる
 へし折る
 撒き散らす


 他者の生きる術を奪う技術は、意志が曖昧であっても自然と上達へ向かう。
 大抵は少女に襲いかかって来る者に対して、ひとつの反撃を与える。
 回避することはままならず、致命傷であるそれを受けた者は、自らの死を理解することも出来なかったかもしれない。
 それほどに鮮やかで、無駄の無い技巧。
 ただ生きる為に得たとしては、あまりに常人離れした才覚。
 それすらも少女は無自覚で、自身に襲いくる者を切り捨てて行った。

「…………命……だけは」

 だが、ある日一撃でしとめ損なった相手が発した、死への恐れの言葉を耳にすることで少女は過去を思い出す機会を与えられる。
 耳に届いた言葉を理解する前に、少女は既にその者の命を奪った後であった。
 力無く投げ出された妖怪の肢体。その者の血に彩られた刀身。


 回線が繋がるかのように、少女の脳裏に思考と言う意志が与えられる。
 思い出すのは決定的に変化が訪れた、火に包まれた情景。
 生きたくても、生きていられなかった両親。逃がされた自分は、何をやっていたのか。
 どうして、生きていたのか。

 何のことは無い。それはただの意趣返しだった。奪われたから、奪い返す。手元には何も残らない。
 だが、少女が求めた物は、今まで殺傷してきた幾多の妖怪の中には存在しない。

「ああ、そうか――だから、生きてこれたんだ」

 そして、少女は理解する。自分が生きている意味は、殺された両親の仇を討つ為だけにあるのだと。
 自身が奪う側に立っていたことを自覚して初めて、少女は行動の意味を見出した。


 それでも少女にとっての日常は変わらない。
 記憶の奥底に秘められた光景だけを頼りに、少女はひたすらに斬ることを覚えた。
 明確な殺意は、力によって奪う者に向けて、同じ方法で以て。


 時には死の淵に立たされるようなことも在った。それでも少女は、その一線を超えることは無かった。
 傷も癒えぬまま、血を流し、血を浴びて。
 幾つもの生を奪い、ひとつだけの生を掴み取っていく。
 彼女はやがて、妖怪が跋扈する地へと、流されるように辿りつく。


 日夜、人は殺され妖怪は天下を取ったようにその生を謳歌する。
 ここも、変わらなかった。ただ一方的に振るわれる暴力に酔い、力を鼓舞する為に無意味に殺される弱き者たち。


 かつて、少女の親が語って聞かせたことがある。
 私たちの父君は立派な屋敷に仕えた高名な剣客で、そこに住むお嬢様の守り刀であったと。
 幼い少女はその物語に憧れ、いつか自分も家宝である刀を振るって、大事な人を守りたいと願っていた。


 それが、現実はどうだ。守るべき者も無くなり、ただ奪う為にこの刀を奮い生きるだけの日々。
 もし自分に守る者が無くとも――この刀は、誰かを守るために振るわれるべきだ。
 だからこそ少女はひたすらに、人に仇為す者を斬り続けていく。
 そうすればやがて、あの死蝶使いに出くわすことを僅かに願って。


 斬る。ただひたすらに、後には引かず、斬る。
 皮が避け、肉が弾み、臓物があふれ出る。苦悶の表情、断末魔。命の灯を強引に消し切る。
 返り血は赤黒く、身体に付着する。着物も身体も川の水で清めても、服にこびりついた染みのように、綺麗に流し去った筈のそれが、少女に纏わりつく。
 鉄の匂い、味。雑多で、臭みが強く、むせかえるような。
 穢れ。古くから命の淀んだ部分を体現してきた。
 少女は、そのただ中に身を投じ続けた。
 脅威に感じた妖怪達が集団で襲いかかろうとも、少女はそれに死をまき散らす返答を返した。


 幾つもの肉片となったそれらは、朝になれば身を潜めるから。
 ただ少女は土に埋め、華向けをする。それがどのような意味を持つのかは、少女自身明確に定義しない。
 ひとりぼっちはさみしいだろうから、せめて纏まった所で眠らせる。
 墓標に名は付けず、その場所は埋めた本人も覚えず忘れ去られていく。
 日は過ぎる。少女はさらに、穢れをその身に塗りつける。


***


 心は玉鋼のように冷たく鋭く、何もかもを斬り裂くようでありながらも、少女は夢にうなされる。
 逃がされたあの日。守るという職務を放棄し、覆いかぶさる男の、濁った瞳。
 逃げ場を探す裸身の少女は、暗闇の中で鞘に収まった刀を見つける。
 男の手を振りほどき、必死に鞘をとり、剣を抜く。その動作を行う視線の先で、男は、噛み砕かれ、脳漿と赤黒い液体を滴らせた頭をぶら下げている。
 首から外れかかった頭で、濁った眼を向けて、男は口を開く。怨みの声を吐き出していく。


 おまえが、ころした
 いきていたかった
 どうして、ころしたんだ
 たいせつなものがあったのに
 なにもしていなかったのに
 おまえはおなじだ
 おまえのたいせつなものをうばったやつと


 ひとつ、またひとつと、その化物は少女を囲むように数を増やしていく。

「違う!」

 叫ぶ少女は、感情を無様にさらけ出し、恐怖に顔をひきつらせ、あふれる涙を手で拭いとる。
 それでも、自らを守るための刀は手放すことが出来ない。
 妖怪か人間か判別しない身体となった『それ』の指が、糸の切れかかった人形のようにぎこちない動きで、少女の手を指さす。

「「だって、ほら」」

 少女は自身の手を見つめる。それは、血にまみれ、もはや元の形も色も解らない。
 無機質な刀の持ち手が、自分がそれを握っていることを少女に教えていた。
 だが、それは、持ち手から先が無く。
 ひび割れて、性別の区別さえも解らないほど壊れた声は、少女の耳元で囁く。
 耳を塞いでも、眼を閉じても、その意味は少女の頭に流れ込んでくる。

「おなじじゃない」

 閉じた瞳で少女は見た。
 刀身があるべきはずの所からは死蝶。
 鞘からは、一匹、また一匹と蝶が舞い出て、少女を囲むあらゆる物の命を奪っていく。
 笑顔を見せていた、両親の姿もその中に――
 自分が叫び声を上げていることを認識する前に、少女は夢から引きはがされる。






 悪夢と呼ばれる夢を見た日は、決まって心が澄み渡る。
 それでいい。少女は、自身の行いを省みることで、さらに相手の命を奪うことが出来る。
 もとより歩み始めた生の道は、ただ一つの目的に向かって進むだけだから。
 復讐、その言葉を彼女は自身に適用しない。ただ少女は、受けたものを返すだけなのだ。
 礼を尽くすそれと、心掛けは何も変わらない。
 少女は、それがいびつに歪んでいると自ら気付くことは無かった。
 そこに立ち寄る者は、どんなものであろうとも、ただ斬るだけだった。





 そして少女は、月の夜に、ある青年に出会った。
 普段と同じように、一対多数の死闘を経て少女だけが残された場に、何の前触れも無く彼は現れる。


 青年は戸惑いの表情を隠さなかった。それが初めに少女が抱いた印象だった。
 斬り伏せた死体が転がるその景色を視界に留め、少女は少しだけ納得する。


 納得した所で、少女はその青年が携えている物を見つけた。
 暗闇で細部は見えなくとも、鞘におさめられたそれは、刀であることは明白だった。
 驚愕に眼を見開き、静止する青年に少女は違和感を抱く。
 命を自由に刈り取る死のにおいも、生に執着する人らしさも見当たらず、ただ青年の様子は、感情を隠せない未熟な部分を持ち、曖昧な印象を少女に与えていた。


 だからこそ、少女は問うた。自身が考えつく、彼がこの場に存在する理由を。

「貴方はどちらだ。斬る側か、斬られる側か」

 喉に剣先を突き立て。
 虚言を吐く機会を相手から奪う。その為に少女は彼に言葉を突き立てた。


 だが彼は、そんな少女に逆に問い返した。
 君は人間だろう、と。
 その理由を問えば、化け物を退治するのは人間だからだ、と。


 馬鹿馬鹿しい、呆れも過ぎて怒りを感じるほどだ。
 化け物を狩る者、人間の都合の良い物語の中では、剣聖とも呼ばれる英雄のことだ。
 少女は幼い頃そうした英雄譚を両親から聞いたことがある。
 希望に溢れ、幸せを自らの行動で勝ち取った彼らは、末長く暮らしました。
 そんな物語は、作られた誰かの想像の産物であり、それを彼は自分に充てたというのか。
 何も知らぬ青年は、そうして無遠慮に、彼女の行為を正当化させた。
 人間ならば、妖怪を倒しても構わないと。一方的に、それが出来るのならば。
 ――それは、妖怪側の考え方と何一つ変わらない。


 そして、少女は気付く。意味を見いだせずとも、少女はその立場に身を置き続けたことは、自身の存在意義に等しくもなっていると言うことを。


 亡念をふりきるように、刀に力を込め、斬り払う。
 青年の駆けていた眼鏡は二つに別たれ、地面に落ちる音がする。
 少女は鞘に刀を仕舞い、唾棄するように告げた。

「二度と私に関わるな」

 胸の燻りを、未だに少女は気付かずにいる。


***


 二言三言交わしただけの青年のことは、一日経過した中でも頭にちらつく。
 彼その者の正体を見極められなかったことを少女は少しだけ悔んだ。
 彼が妖怪ならば、他と同じように斬り伏せる。
 人間ならば、興味を完全に失い、集落に住む人間と同じように応対することが出来た。
 血を洗い流し、刀を振るう。血や油は、水を付けた後に振りきることで雫を飛ばしていった。
 いつものように素振りをこなして、掛けた罠の確認、小動物が掛かっているのなら夕餉に。無ければ山の麓で野草を探す。
 草の根を噛み、泥水を啜る生活に慣れてしまった為、この地は食糧になる物が充実していると少女は感じていた。
 

 しかし、それもすぐに意味が無くなることだろう。在る程度の妖怪を狩り尽くせば、少女はまた別の血を求めて歩き始める。
 荷物は持たず、人とも関わらず。ただ流れるままに。
 青年の声が耳に届く。

『妖怪を倒すのは、何時だって人間だ』

 雑音、不協和音のようにその言葉は、脳裏を駆け抜けた。
 少女はかぶりを振って、その場を後にした。最後に、石の上に雛罌粟の花を置いて。


 日は沈み、オレンジ色の空を少女はじっと見つめている。
 逢魔が時は夜の者を引き寄せ、宵闇に紛れて彼らが動き出す。
 少女に妖怪を探知する能力は持ち合わせていない。
 ただ、惨劇があるか、そこかでざわめく気配を察知してその歩みを進める。


 妖怪には、大きく分けて二つの種類の者が存在する。
 少女にとってそれは、話の通ずる物と、会話そのものが不可能な者に分類される。
 後者は理性と言う物を持ち合わせてはおらず、本能に従って人を襲う。
 自らの腹を満たすため、その恐怖を糧とする、ただそれだけの為に。
 それは、獣とどう違うと言うのだろうか、少女は少しだけ考える。
 少女は、話を交したことのある妖怪とは数度しか顔を合わせたことが無い。
 そうした者は、一見人間と大差の無い外観で、あろうことか少女と同じくらいの年代の人間の形を為していた。
 それらの妖怪には、少女は明確に止めを刺した経験は無い。
 精々痛み分けと行ったところで、澄んでの所で逃げられてしまう。
 逃げる妖怪は最後に、少女の姿を怪訝そうに見つめて、決まってこう言うのだ。

「ああ、やだやだ。割に合わないよ。人間もどきを相手にするのはさ」

 少女は、自分は人間なのだろうかと思ったことがある。
 何よりも人を襲う妖怪からそう評された事実は、少女にとって一考の価値は在った。
 剣を握ったあの日を境とするならば、人間らしい生活を過ごしていた過去は、今では全くの別物である。


 なるほどあの日より前を人間とするのならば、転機を経て自分は人間では無くなったのかもしれない。
 そうであるならば、ただの修羅として躊躇なく剣を振るうことが出来る。目的さえ見えているのならば、そうであっても別にかまわないと少女は思う。
 ――妖怪を退治するのは
 だから、その無遠慮な言葉は、少女の頭の中で擡げる。
 彼は、そんな自分を人間だと言った。彼自身が少女から見て人間か妖怪か判別できないと言うのに、彼は断定してみせた。

「私は、人のままなのだろうか。弱い、あの頃のまま」

 答えは見つからない。手がかりもつかめないまま、少女は悲鳴らしき物を耳で拾い、思考を中断した。






 草むらを抜けて、視界が開ける。体毛に覆われた巨体、振りおろそうとする手には巨大な爪を携えていた。


 その先には、人間の子供の姿があり、数秒も経たないうちにその腕によって、肉片へと変貌を遂げることだろう。
 鞘の中を走らせ、抜刀した勢いをその巨体に叩きこむ。
 相手にとっては奇襲とも言える状況に、当の相手はその者が持つ武器によって受け止めた。


 少女は、そうして人間の子供と妖怪の間に割り込んだ。
 小さく土に落ちる音が鳴り、それは人間の子供が倒れたことを意味する。大方気絶して倒れたのだろうと、少女は背後の状況をそう把握した。
 対面する妖怪は、少女が見上げることでようやく見下す相手の表情を確認することが出来る巨体を誇っていた。
 慎重にしておおよそ6尺五寸。筋肉質な肉体が作りあげるシルエットは、上半身が肥大し、二足歩行という共通点を除いて人間とはあまりにかけ離れた獰猛さを孕んでいた。
 全身は薄灰の体毛に覆われ、鼻梁の高低差の激しい顔立ちは何処か猛禽類の嘴を少女に想起させた。
 三日月状に細まる眼光は、少女を嘲るように妖しく揺らめく。その感情と印象に互い無く、妖怪は下卑た笑い声を挙げた。

「とんだ邪魔が入ったと思えば、このような童が相手とは……歯牙にもかけぬとはまさにこのことよ」

 言葉を話せるのか、と少女は一瞬素直に感じた。
 しかしそうした感情は、表情には一切表れずに、ただ仮面のように何も変わることが無かった。
 やや演劇的な、脚色が入ったような語り口調ととれる。その妖怪自身は気付いてはいないようだった。

「しかし、今夜の食事を探す手間が省けたと言うこと」

 すぐに楽にはせぬぞ、と妖怪は奇色ばんで言葉を続ける。
 振り上げ、受け止めていた刀身の軸をずらすことで少女は妖怪の爪から逃れた。
 一瞬驚いたように眉を挙げた妖怪に対し、少女は上方へ上がった切っ先の向きを変える。
 弾いた勢いを利用した突きは果たして、妖怪の咄嗟の防御により傷を与えることはままならなかった。
 お互いに体勢を崩し、飛び退くように距離を取る。
 僅かに離れた少女の眼には、先程の笑みを消し去った妖怪の姿がある。

「成程……貴様、最近現れたと言う妖怪退治か。いくつもの同胞が戻ってこなかったという、我らに仇為す者」

 決闘の前口上のように、高々と声を挙げる妖怪。
 自身の爪を振りあげて、はっきりとした敵意を妖怪は少女に向ける。
 妖怪にとって同胞を奪われた、憎むべき仇敵、そう少女のことを捕えているのだろう。
 眼には憎悪の光をたぎらせ、歯をむき出しに妖怪は笑っているか歯噛みしているか判別しづらい表情を覗かせた。

「言うはそれだけか」

 馬鹿馬鹿しい、と少女は冷めた眼で妖怪を見つめる。

「私は妖怪退治などしていない。向こうが仕掛けてきたから殺すだけだ。お前たちは人間を襲うことを、人間退治とでも言うのか」

 妖怪が仇敵を見つけたと高揚する。あるいは少女もそうなることが出来たのかもしれない。


 もし自らが探し求めた死蝶と舞う者と出会えたならば、この妖怪のように少女は怨みを相手にぶつけるのだろうか。
 そうでは無い。仇打ちだと、相手にそれを理解させてから闘いに挑むなど、少女にとって正しさは何の価値も見出さない。
 目には目を。突然理不尽に奪われた命は、同じように奪い返すことで成立する。何も過不足無く、復讐は正しく執行される。


 そして妖怪の自らを鼓舞するような口上は、自分たちを絶対の高みへと置き、見下しているだけなのだと。
 妖怪は、仇打ちと言う名目を見つけて、少女を嬲ることに喜びを噛みさせているだけに過ぎない。

「何を言い出すかと思えば、世迷い事を。やはりただの餓鬼か」

 嘲るように、妖怪は嗜虐の笑みを深める。
 だがそれは、すぐに妖怪の激情にかき消されていった。

「人間風情が、我と同じ高さで物を語るな!」

 妖怪が、その巨体からは想像がつかぬ程の俊敏さで前方へと駆け出す。手加減も油断も感じさせない膂力から放たれた爪牙の一撃は、当たる者ならやすやすと少女の身を抉り、吹き飛ばしたことだろう。
 少女はその妖怪の襲撃に眉ひとつ動かさず、隙の無い回避行動を取る。
 身を捩り掠めるように避け、衝撃の余波を肌で感じる少女は、剣を振り被った。
 その動作を察知していたとも思える態度で以て、妖怪は防御に身を割く。お互いに、相手を殺傷する目的で放った一撃は、無傷と言う結果を残した。


 無反応の態度を貫く少女に対し、妖怪はその顔に当惑とも焦燥に似た感情をくすぶらせていた。
 切っ先からの軌道を変化させて、急所から僅かに外れた場所を狙う。
 少女の騙し打ちに似たそれは、致命傷を与えずとも徐々に相手の肉を切らせていた。
 一方で、ひとつひとつが必殺の一撃とも言える妖怪のそれは、空振りを繰り返す。
 しかし、妖怪もただ力任せに腕を振るっていた訳では無かった。
 少女の回避の傾向を分析することで、徐々に外れたという結果を修正する。


 自らの血を流すこととなっても、それは妖怪にとっては些細なことであり、むしろ同じ状況に持って行くことが出来るのならば、体力の差で先に人間が果てることは妖怪には容易に想像できることだった。
 現に、互いの一閃を弾いた際に距離を取った際、少女の身体には肩で息をする程度の変化を如実に表していた。
 それで良い。このまま拮抗状態に陥れば、奴はすぐに動けなくなる。その時こそ、この手で嬲ることが出来る。
 妖怪は、予測する未来に思わず笑みが漏れる。その表情に、少女は僅かにでも変化を起こせば、妖怪の予想通りに状況が運んだことに違いない。


 だが、少女は、それでも。
 感情の灯を揺らさず、深淵の影のように何色でも無い瞳を湛え、相手の姿を捕えていた。
 おおよそ人と言う生き物にあるまじき、いや、人だから発することが出来るのだろうか。
 少なくとも、長き時を生きた妖怪にとってそれは、存在する可能性を僅かにでも残した、あってはならないモノに思えた。
 恐怖、怯え、嫌悪、怨念、いずれも他者に抱く負の感情の色を、それぞれ強く表して混じり合えば、この少女のような暗く幽冥を体現したかのような色を作ることが出来るのだろうか。
 圧倒的な敵意。それを妖怪は自らに向けられているのだと、そう悟った。
 そして彼――妖怪は、咆哮し、爪を掻き鳴らす。大地を踏みしめ、内なる力をあらんかぎりに表出させようとする。
 何故なら、妖怪は、童女と嘲り笑った相手に対し、強すぎる嫌悪感と、底知れぬ――恐怖を抱いていたのだから。
 轟音ともとれるそれが、自らの声であることを知覚する暇も無い程に、妖怪の意思は対象への害意へと塗りつぶされていった。
 少女は、妖怪の劇的な感情の変化に対し、察した所で何も得ることは無い。
 何が妖怪を駆り立てるか、人間を殺すと言う行為は、妖怪にとって遊びめいたただの悦に浸る為の手段のひとつであったのだろう。
 だが、妖怪は確かに、脅迫観念を以て。まるで背後から追い立てられるように、真直ぐに少女へと駆け抜ける。
 振り下ろされた剛腕は、少女は避けることが出来なかった。咄嗟に刀身で防ぎ、腕に伝わる衝撃を全身で受け流す。
 弾くでは無く、ただ弾かれる様を強制される。それほどに果敢に、猛烈に振り下ろされる妖怪の腕撃。ひとつひとつが人を殺傷せしめる威力を秘め、受け止めた身体はそのまま地面に沈みそうなほどの衝撃を少女に与えた。

「……っ!」

 苦しげに少女は吐息を漏らした。そして、自らの身体に限界が近付いていることを悟る。
 持久戦は本来少女の望む物では無く、反撃の暇を与えずに殺傷することを常としていた。
 ただ、この私闘は、“死合”は互いの全力を出し切らなれば決着を迎えることが出来ない、そのような類の物であった。
 真正面からの突き。刀身を滑らせて受け流す。そうした反応と行動への反映に、僅かにブレが生じた。
 通常、相手よりも膂力が劣る場合、向こうが仕掛けた運動エネルギーを、正直に受け止めぬように対象の位置をずらすことで回避や防御からの反撃に繋げる。
 柔よく剛を制す思考は、相対する者の単純な筋力や頑強さで勝負を決さない為の心掛けだ。
 少女はその言葉を耳にした機会は在ったが、少女自身がそれによった闘い方を選んだわけではない。
 より効率的に、早く確実に斬り、殺傷するという取捨選択の際、自然と身に就いた闘い方であった。
 そうした、攻撃に対する防御は相殺では無く、軌道を逸らす方に特化した回避要求に、少女の身体が先に音を挙げた。
 外し切れ無かった衝撃を全身で受け、少女は体勢を維持することが不可能となってしまった。
 そのまま数尺吹き飛ばされ、片足で地面を差し込んで受け身の態勢を取る。


 視界が霞む。鉄の匂いが少女の鼻腔を刺激する。皮が裂け、頭から血を流しているらしい。
 思わず片膝を付く。幾つか付着した血の黒ずみは、妖怪の返り血だけでは無く、自ら流したそれも多く見受けられた。
 身体が震えた。体温が奪われている。故に寒さを感じているのだろう。
 膝が笑い、真直ぐに立ち上がることすらままならない。幾度か経験した、死線と言う物は、人間の少女にしては声過ぎた程の数を誇る彼女であっても、比較すべき物が無い。
 少女の背後には、死に神が迫っていた彼女の後ろの方で、その存在をささやかに主張するかのように、手招きをしている。
 それでも、少女は、振るわれた刀を握る力を決して緩めようとはしない。
 前に転びかけるように駆け出して、剣を振る。右から左に斬り払うその動作に、淀みは無かった。
 故に、先程のふらついた少女の姿に僅かに油断していた妖怪は、その劇的な攻撃への変化に、完全な回避を行うことは出来なかった。
 肉を僅かに斬りつけられ、苦悶の表情を浮かべる。妖怪はそして、人の身でこれほど感情を表さずに殺しにかかる少女にひるんだ。 

「貴様、何故だ、人ごときの身でそうも抗える!?」

 妖怪は感情をあらわにする。それに呼応するなど、一切の反応を表さずにただ無感情であった。
 狼狽し隙を見せた相手に、一撃。防御、成功とは言い難い。形成を崩される。反撃。刀身で受け止める。手元で制御が難しく、後方へ下がる。
 返しを行い、爪と打ち合い。一歩下がってから、振り直し、剣閃は完全に回避、勢いを殺さず軸足からの斬り払い。かすめて僅かに損傷。
 脳の反射は、少女に冷静に状況を伝える。そこから得る限りの最適な動体反応を返す。それが、死を妖怪に与える為だけに少女の機能を最大限活かしていることに変わりは無い。


 ただ、斬る為に。
 ただ、殺す為に。
 ただ、奪う為に。
 少女の思考は、言語に表せばそのように表される。
 それは、人からすれば信念という者に体現されることだろう。


 そこに理由は無く。
 そこに意味は無く。
 そこに、虚飾は一片も存在しない。
 だからこそ、少女は――それ以外を感知しない。


 そう、それは、例えば。
 少女が助けた人間の子供を捜索していた者が表れ、少女と妖怪の試合を見ていたことも。
 その中に、少女の知る青年の姿が在ったことも。


 咆哮と共に、妖怪は爪を振り被る。
 確かに身体の軸の中心からずれ、不安定な体勢で立つこともままならない。
 だからこそ少女は、自ら倒れるように身体に勢いを付けた。
 そして、上下が反転した視界から地面を手で押し出して、少女は正面から妖怪と相対する。
 あまりに超人的な早さで行われた転進は妖怪の反射速度を凌駕した。
 結果、少女の手に握られた大刀に、その身を深く穿たれる。
 刺した、と言う感覚を得て、限界を超えた少女の肉体は、意識を維持することを放棄した。


 致命傷だと、妖怪は察知した。肉体の痛みなど長く生きた彼の人生では織り込まれた経験であった筈である。
 だからこそ、この傷は癒しようも無い絶望を妖怪に与える。


 自分は負けたのだ。この年端も行かぬ幼い人間の子供に。それも、互いに死力を尽くし、どちらが果てても在り得る未来が在った。
 幾つかの油断が自身に在ったとは言え、その闘いは妖怪の心を昂らせた。それは久しく彼の内に存在しない物だった。
 思えば、人間が自分たち妖怪と正面から殺し合う機会を失くしてからどれ程の月日を経たことだろう。
 妖怪退治の専門家と呼ばれる人間の姿を見なくなってから、何処か物足りなさを妖怪は感じたことも在った。
 力を持ち仇為す者が存在しなければ、彼はその日の糧に困ることは無かったと言うのに。
 そして、消えゆく己の存在を感じながら、妖怪は悟る。
 この、負けた怨みよりも、負かした相手を湛える気持ちの方が多い胸の内が、何を物語るのか。
 一方的な殺戮よりも、妖怪は闘争を望んだのだ。
 その中にこそ、長き生の退屈を紛らわす。結果、自らが死ぬことになろうとも。

「全く……つまらんな――」

 霞んだ視界の先に見えた者は、妖怪に向けて恐怖の視線を送る、数多くの人間たち。
 いつの間にか表れたかは知らぬが、死の前にその恐怖を一身に受けている感覚は、少しだけ彼の心に安らぎを与え、そして消えていった。


***


 再び意識を取り戻した時、少女は視界に映る天井の木目を認識した。
 意識は混濁し、汚泥から身を起こしたかのように全身が重たい。
 そして、少女は自身が屋内に居ることを感知する。
 屋敷の一室には布団が敷かれ、少女はそこに横たわっていた。
 これまでの日々にはあり得ない覚醒の仕方に、当初少女は戸惑う。
 戸惑いの中、自分が意識を失う前の情景を思い出すことで、少女はひとつの解を得る。
 あの妖怪との闘いで思った以上に負傷し、倒れた自分を人間の誰かが見つけ、介抱してくれたのだろう。
 しかし、思った以上に頭が回らない。状況を推察しようにも、視界はぼやけて耳には音が入ってこない。
 やがて女中と思わしき者が部屋に入って来ても、少女は上手く意思を伝えることは適わず、ただ問うだけ。

「ここは……私の――刀は」

 質問は、正しく返される。
 しかし、少女はそれを理解することだけでも難儀を極めた。
 再び意識がまどろみ、それを抗うことは少女には出来なかった。


***


 夢だ、と少女は夢の中で判断する。
 何故なら、少女の眼に映る物は、遠い過去の時を映し出していたのだから。

 そこには、幼い自分の姿が在った。
 かつて住んでいた屋敷の庭で、棒きれを振り回している。
 それは昔、使用人に手伝ってもらいながら少女が作りあげた、自慢の一品だった。
 上段で構えて、力いっぱい振り下ろす。息を整えて、また振りあげる。
 一連の動作は、剣の素振りであり、未熟なそれは遊びの延長でしか無い。

「あらあら、またそんな物を振り回して」

 縁側の廊下から姿を現したのは、少女の母親だった。
 少し心配そうな表情で、娘の行動を見守っている。
 それを見つけると幼い少女は、誇らしげに胸を張って応えた。

「これはわたしのカタナです。そんな物じゃないの」

「怪我でもしたら大変だから、人に向けては駄目よ」

「大丈夫です。わたしはおじいさまのような、りっぱな剣士になります。なって、かあさまも守ります」

 迷いも無く真実を述べるように、少女は夢を語った。
 少女の言う『おじいさま』と少女に直接の面識は無い。
 ただ父親から語り聞かされた、剣聖としての祖父の姿を憧れに投影された偶像でしか無い。
 他者の言葉をそのまま自分の世界の真実に拡張する幼さは、誰も咎めることは無い。
 現に、思い出の中の母親は、慈しむように娘を見つめていたのだから。

「そう。お父様のように……あなたなら、きっと大丈夫よ」

 嬉しく笑む過去の自分を、少女は夢の中で見つめている。
 今でも、母親の言葉の本当の意味を少女は知ることが出来ずに居た。






 見上げた天井に変化は無い。
 ただ、少しだけ周囲の喧騒が多いと、聴覚はそう少女に伝える。
 二度目の覚醒からは、少しだけ状況が頭に追いつくようになっていた。
 初めに問うた相手の言葉を思い出す。
 ここは、稗田と言う家の者の屋敷であり、刀はここで保管されていると言う。
 部屋に入って来た医者と思わしき者の手当てを受けながら、少女は自身の境遇を完全に理解した。
 初めに、自分はあの夜の闘いで大きく疲弊し、受けた傷から気を失った。
 それから人里の人間に発見され、この屋敷に運びこまれ、手当てを受けているのだと。
 傷は思ったよりも深く、身体を僅かに動かすだけでも激痛が走る。
 これでは歩き回るだけでも難しそうだ。
 回復に努めるべきと言う身体の要求に従い、最低限の回復までは、少女は提供された物を教授するほかに無い。
 しかし、そんな施しを受ける義理も無い為、その最低限の部分を、やや低く設定する必要がありそうだ。
 そして少女は、今の状態をそれだと定義づけることにした。

「眼を覚まされましたか」

 医者が去った後すぐに、別の者が入室してきた。
 声を掛ける壮年の男は、自らを里の代表者と名乗った。
 その上で、里の子供を助けたことに感謝を述べる、と大仰な言い回しで宣言した。
 少女には見覚えの無いことであったが、あの時の場に居た人間の子供が該当するのだろう、と判断する。
 謝辞に興味と意味は無く、少女は相手の言葉を切りあげるようにはっきりとした声で呟いた。

「私の、刀は何処に」

 繰り返す問いに対して、相手はそれ以上の情報を与えてはくれなかった。
 別の場所に保管していると答える男に対し、少女は「そうですか」とだけ返す。

「ご迷惑をお掛けしました。すぐに出立しますので、私の服と剣を用意して頂きたい」

 当然のことながら、相手はそれに反論した。
 礼を尽くしていないと、少女を引きとめようとする。
 断るだけの言葉は出るが、身体はそれを示す程に機能せず、立ち上がろうとした少女は、痛みに顔をゆがめる。
 倒れそうな身体を引きとめたのは、先程まで会話を交わしていた男では無く、別の者であった。

「貴方は……」
 
 その時初めて、少女はその存在に気付く。
 特徴的な顔、眼鏡が無いことを除けばその姿は、以前に対峙した青年のそれに相違ない。
 よもや瓜二つの別人と言う訳では無いのだろう。行為で以て少女を引き留める青年に対し、反発する感情が膨れていく。

「どうして止める」

 問いに明確な答えは無く青年は、はっきりと声を上げた。

「良いから落ちつけ。身の程をわきまえろ」

「……!」

 挑発をそのままの意味に受け取ったと思われる少女の表情の変化は劇的な物だった。
 少女に対する青年の印象とはかけ離れたそれに、言うべき言葉が見つけられない。
 一瞬とも思える隙を突くように、青年はまくしたてる。

「君は一人で何もかも出来ると思っているのだろうが、現実はこんな物だ。迷惑を掛けたと思うのなら、それなりの態度で以て応えるのが礼儀だろう?」

「だからこそすぐにでも出ていくと言っているんだ。それをどうして邪魔する」

 少女の口ぶりは、外見相応の未熟さと幼さを表している。

「それが身の程知らずと言っているんだ。怪我人を放り出したら、それこそ評判に関わる。それに」
 
 だからこそ、少女と僕は睨むように顔を突きつけて、愚にも付かないことを口走らせる一端となってしまったのである。

「僕は君のことが心配なんだ。そしてもっと知りたいと思っている」

 それから起こることは、少女の感情を露わにさせる。
 青年は彼女の唯一の肉親だと語り、運び出した刀を見せて、さも自分の所有物で在るかのように振る舞う。
 許せなかった。捏造された説明を真に受ける里の代表者たる男にも、それを行う青年にも。
 どのような外傷でも表情一つ変えず、感情を揺さぶらなかった筈の少女は、沸き起こる激情を抑えることなど出来はしなかった。

「ふざけるな! そのような妄言、これ以上許せる物では無い!」

「いやはや、それでは記憶が混濁していても無理はありません。ここは安静に」

「これが安静にしていられると言うのか! 私だけでは無く、家名を騙り先祖を侮辱する行為が、許せる筈が無い!」

 視界が赤に染まる。少なくとも、少女にとってそれは比喩ではなく真実である。
 彼らは、秘められた心をこうも容易く暴き蹂躙した。
 理解したように嘘を認識せずに納得する者も、少女の反論すら手玉に取ろうと口上を並べる青年にも。
 等しく脅かす。忘れかけていた想いを、再び燃え上がらせる。

「少なくとも、僕は君について知っていることがある」
 
 静かな声で青年は少女に伝える。
 正しく意味を読みとった少女は、その嘘を睨みつける。
 視線が交錯する青年の瞳には、怯えや恐怖と言った物は存在しない。

「刀の名は、楼観剣」

「――ッ!?」

 掴みかかろうとした腕が力を失う。


 幾多の嘘の中で告げられた、たった一つの真実。
 青年は続ける。本当を語る。

「『一振りで幽霊十匹分を斬る程度の斬れ味を持つ』。君が持つ刀の力だ」

 そうして少女は、解決すべき問題を手にする。
 揺らいだ青年の眼の動作に、彼女は気付くことが無かった。


***


「では、彼女の療養に関しては……」

「治療の目処は……また発生した問題については……」

 少女が身体を休める部屋の中で。
 布団から半身を起した姿勢でその光景を少女は眺めていた。
 部屋には数人の男。どれも人生の半分は超えた年齢だと言うことは、その風体から容易に想像できた。
 彼らの議題は少女の処遇についてである。当の本人は、そこに何の感慨も湧かない。
 少女が見つめる先には、彼ら議論を交わす人間の中に居た、一風変わった若い青年が在る。

「それでは、以上で宜しいですかな。繰り返しますと――」

 会議の進行役を買って出ていた男が宣言する。
 口上が進むにつれて、彼らの視線がひとつの方向へ定まる。

「彼女が完治するまでの世話は、肉親である彼に一任する。異存はありませんな?」

 結果、里の代表者たちの意向は、その内容に集約される。
 彼らは最善の方法を表情に貼り付け、押し付けに等しい役目を果たすべき者を眺める。
 彼らにはこまごまとした厄介事から自分たちを回避出来たことに、人知れず安堵しているのだろうと少女は感じる。


 一方で、それら全ての責任を担う青年は、ただ静かであった。
 歓喜の表情も、厭世的な表情も、どちらの方向にも向かない無表情とも思えるそれこそが、少女に据わりの悪さを与えていた。
 青年は銀髪の頭を僅かに揺らし、短く答える。

「お任せ下さい」

 議会は安寧な終末を得る。
 それは少女に、くすぶる何かを胸に植え付けるだけだった。






 過不足無く食事をひとりで行えるようになるまで数日。
 補助を得て立ち上がるようになるにさらに二日。


 少女が杖を使い歩き回れるようになるまでに、一週間ほどの日数を消化した。
 身体は、痛みを主張するよりも反応が鈍く変ってしまったようで、まるで神経だけが死んでいる四肢を扱っているようだった。
 それが錯覚であることは、万が一という可能性を廃棄し、少女の中であり得ない。


 身支度と言うほど多くは持ってはいない。
 ただ、長い間着続けた着物は無くなり、里の中でも上等な部類に入る服を少女は纏っていた。
 陽の下で見ることが出来たかつて身に付けていたそれは、もはや服と呼ぶに支障がある、ただのぼろきれのように少女の眼に映っていた。
 杖を突き、青年の後を追うように進む少女の姿は、里の中で大変に目立つ。
 好奇心を隠しきれない潜めた視線を全身で感じ、少女は歩く。
 その手元に肌身離さず持っていた刀は無く、そして青年の腕にもそれらしき姿は確認できない。
 そもそも彼が持ったとしても、隠せるほど小さな物では無い。
 少女の実の兄を騙った青年は、今に於いても言葉は少なかった。
 二言三言以上の会話を交わした時は、彼が刀を持ち出し眼の前に見せたあの日と、初めて出会った夜しか無い。
 寡黙であるかどうかと言う問題は少女にはどちらでも良いことだった。
 ただ彼は、自分から情報を聞きだそうと、慎重にことを進めているように思えるだけだった。

「着いたぞ」

 その場所は、随分と質素な外見の建物だった。
 古い町屋を彷彿とさせる作りは、内部の狭さを雄弁に物語る。
 ゆるやかに仰角の付いた屋根は、幾つか部品が抜け落ちた点が見受けられる。

「見た目はやや粗末な作りだけどね。生活するには不自由は無いさ。上がるには段差があるけれど、杖が外れれば大して問題は無いだろう。居間は入ってすぐの所、隣が台所だから襖を閉めれば部屋として分けられる」

 雄弁な語り口調で、青年は扉を開ける。
 刀の一件と言い、彼は物事を説明する際には、より細かく多くを語る心意気のような物があるらしい。
 少なくとも、ここ数日の言葉少なげな彼からは、どうにも連想が難しく感じてしまう。
 だがそれも、少女にとってはあまりにも些細なことだった。

「刀を返して下さい」

 少女は命令のように告げる。対する青年は、眼で奥に入るように促す。


 果たしてそれは、質問の答えでも在った。
 部屋の奥には、台座に置かれた刀があり、そして彼は語り始める。

「君が僕を語るに足る相手だと認めて貰うまでは、こうした奇妙な生活を続けるつもりだよ」

 青年は、説明の責任を果たした上で少女に疑問を投げかけた。
 それは、彼の行動のたったひとつの理由でもある。
 青年は少女の目的を知る為に、経歴を騙り周囲を騙して居るのだと言う。


 彼が告げることが出来た唯一の真実。
 刀の名。楼観剣。
 その名が広く世に知らされた事実は無い。
 だからこそ彼は、交渉の切り札として、その情報を開示し周囲の信頼を勝ち取った。


 そして、彼がその名を知った方法は、自身の能力だと言う。
 道具を見ることで名称と用途を知ることが出来る能力。そう彼は述べた。
 その能力の真贋は、何より少女自身が認めざるを得ない。
 彼女は誰にも刀の名を教えたことも無く、そして刀の名を知る者など、今は少女以外存在しない筈であった。
 そう――きっと、存在しない。


 彼は少女に食事を用意し、共に済ませてから、就寝の用意を滞り無く済ませた。
 部屋を分け、灯りを消し身体を休ませる。
 そこに至るまで会話は殆ど無く、故に彼は一通り彼女に語り終わったのだと示していた。


 暗い天井を見て、少女はぼんやりとしていた。
 そう言えばここは、屋敷よりも低い天井だ、と。
 思うべきことも考えるべきことも多すぎた少女は、やがて眠りへと落ちていった。


***


 これは夢だ。幸せな過去を流すだけの、思い出の一幕。

「ていっ。やぁっ!」

 屋敷の庭で、幼い子供が一生懸命腕を振るう。
 手には棒きれ。子供が自分の手で作り出した、愛刀である。
 そこに対峙するは、その子供の倍以上の背丈を持つ若い男だった。

「お、とっと」

 身長の差から足元しか狙うことの出来ない子供に対し、竹刀を持った男性は不慣れな手さばきで攻撃をいなしていく。
 やがて男性はバランスを崩したように尻もちを付き、子供が放つ全力の打ち込みを受け止めることとなる。

「あいたた。参った。とうさんの負けだ」

 男性――少女の父は、困ったような笑みを向け、幼い子供――過去の少女は、勝ち誇ったように笑みを見せていた。

「後で着替えないとなぁ。またあいつに小言を言われそうだ」

 軽い調子で呟き立ち上がる男性は、少女を手招きして縁側へと腰掛けた。

「やりました。とうさまにも勝つことができました」

 誇らしげな少女は、それでも同じ年頃の子どもに比べれば表情に乏しい。
 言葉以上に喜んでいるようにも見えない幼い娘へ、彼は優しい表情を向けている。

「これでとうさまが勝てないテキがでてきても、わたしが守れます」

 泥の付いた手を握ったり開いたりを繰り返し、実感を確かめるように少女は呟く。

「でもなぁ。とうさんはそんなことが在ったら逃げて欲しいと思うぞ」

「なぜです。敵が来たならたおせばいいではありませんか」

 生来の真面目さを隠せずに、素直な疑問を述べる少女に、彼女の父は困ったようにほほ笑む。

「どうしてもそうしなくてはいけない時以外は、無理して闘わなくてもいいととうさんは思うんだ。その方が危険も少ないしね」

「それでは、ダメです」

 まるで自分が父を守ろうとすることを否定されたように感じた少女は、僅かに声を震わせて、それでも毅然と答える。

「わたしはおじいさまのような、たいせつなひとを守れるカタナになりたいんです」

 まっすぐに意思を向ける娘に対し、父は掌を愛しい娘の頭に置く。
 撫でる仕草には、優しさが溢れている。
 俯瞰して見ることで、それが強調して見えてしまう。
 過去を見せつけられる、少女の眼に。

「とうさんは、なれなかったからなぁ」

「どうしてです」

「才能が無かったから、かな。僕には義父さんのような剣客に絶対に辿りつけない。一度手合わせして貰ったけど、天と地ほどの差が在ったよ」

「とうさまはサイノウが無いから、わたしにも勝てないのですか」

 これは手厳しい、と彼は笑う。


 思い返せば、父はいつも笑みを絶やさない人だったと、少女は知る。
 常に一歩引いた所で、大切な物を愛でていた父。
 その愛情に偽りが無かったことを、少女は証明そのものを目の当たりにしている。
 身を挺して、自分を守り通した、剣を握りしめた父の背中は何よりも力強かった。
 抗う者として、『たいせつなひと』を守り通した剣客としての、父。


 思い出の中の父はほほ笑む。優しいそれを見ることは、少女はとても好きだった。

「そうだね、君なら義父さんの跡を継ぐことが出来るかもしれない。仮にそうでなくても、君には幸せになって欲しい」

 少女の父は娘の頭を撫でる。
 幼い頃の少女は、心地よく目を瞑り、父の大きな手の感触を楽しんでいた。


 過去に見つめることが出来ず、再現できる筈も無い彼の表情は、決意を秘め固く引き絞られていた。

「だから僕は、君を守るよ……妖夢」

 名を呼ぶ。彼が愛する娘の名を。


***


 夢から覚めたのは、唐突な終わりを迎えたため。
 上映された映写機からフィルムが断絶され映像が切れるように、あまりにも呆気なく、予想の付かない終わり。
 寂れた天井を見つめる少女は、今の自分の状況を改めて教えてくれる。
 そしてフラッシュバックのように、彼女は再現された事実を突きつけられる。

 彼は、父は死を迎えている。
 少女は知っている。その瞬間を目の当たりにしているから。
 あの夜、少女の生の意味が変わった日。
 いつものように夜を迎え、瞼が重たく感じた少女の元へ、父親がやってきた。
 緊張に表情を引き締め、厳格な口調で、少女へと告げた。

『これを持っていなさい。僕が良いと言うまで、ここから動かないこと。約束出来るね』

 渋々頷いた少女は、喧騒に巻き込まれた屋敷の異変から、それを反故にした。
 屋敷内を駆け巡り、やがて何処からか火の手が上がり始める。
 勇気を振り絞って少女は、父を見つけた。


 だが、彼の前に出ることは出来なかった。
 僅かに開いた襖を隔てた先の光景は、少女の歩みを止める。
 地に伏す、微動だにしない人たち。屋敷の使用人と、そこには母の姿も在った。
 火に巻かれ、徐々に焼け落ちる部屋の中で人影が二つ。


 片方は、刀を正面に構えた男性、少女の父。
 もう一つは、決して背が高くは無い、何者か。
 煙に巻かれて部屋の奥に佇むその者の姿は判明しないが、父の立ち方は、有好的な相手に向けられたものでは無い。


 そして、その者の周囲から、光輝く何かが溢れだした。
 その形が、蝶を為していた事実を知る頃に。


 少女は誰かに担ぎ込まれ、その場を離される。
 最後に、膝から崩れ落ちる、父の姿を目撃して。


 少女は叫び出したい衝動に駆られ、思わず口を手で覆う。
 ここが何処だか解っていない少女では無い。
 そして何よりも、そうした様子を相手に気取られたくなどなかった。
 背後まで寄って来た死は、どうしようもなく怖かった。
 復讐の為にあの死蝶を扱う者を追う日々は、害となる者を斬り殺す毎日だった。
 その中で、何度も命を落としかける機会も存在した。
 今回も、程度は深くとも、そうした中の一つであった筈だ。
 だが、何処かで歯車は狂い。
 少女は何も出来ず、刀を取り上げられたまま、治癒に専念しなければならない。
 自身の未熟さを、不甲斐無さを嘆かない訳が無かった。


 だが、それだけでは無い。
 少女は改めて、理不尽に全てを奪われた日を思い返してしまった。
 何も出来なかった自分。守ると宣言した誰もかもを消え、何一つ遂げることも出来ない。
 そして、一方的に保護された身。
 悔しさは感じる筈が無かった。草の根を噛み泥水を啜るような生き方は、今の少女には染みついている。
 だからただ思い知らされた。ひとつ、自身が見出した解によって。
 自分は何一つ為すことも、ひとりで達成することも出来ぬ半端者で、弱いのだと。


 少女の頬に、ひとつの線が描かれる。
 それは涙だ。押し殺した声で、少女は慟哭する。
 乾いた心は癒されず、そうしてまたひとつ、潤いを奪い去っていった。


***


「起きていたか」

 朝の陽が射しこむ頃、青年は帰宅した。
 彼が何時から家を出ていたのかは少女には解らないことだったが、大方里の防衛に駆り出されていたのだろう。


 人間の里はその名の通り、妖怪に眼を付けられやすい人間の数を持つひとつの集落だった。
 当然夜になれば食糧を求めて里に向かう妖怪に対し、人間たちは自警団を結成して死守している。
 しかしあまりの力の差に、犠牲者は増える一方。
 精々減少を最低限に食い止めることしか出来ない現状だと、里の代表者は以前少女に説明していた。
 里の男手は殆どが守りに出され、青年も例外では無かった。 
 傷や服装の乱れが見受けられないことから、彼はその夜は無事に過ごせたことを物語っていた。


「すぐに用意する。可能なら布団から出てくれ」

 手慣れた様子で、彼は携えた脇差を部屋に置く。その隣には、台座に置かれた少女の刀が在った。

「――あの」

「水を汲んで置いたから、顔でも洗ってくると良い」

 慣れた手つきで、青年は台所で簡単な食事を作り始めていた。
 少女のことを必要以上に気にかけていないような自然な態度は、彼女に何処となく違和感を生じさせる。
 断る理由も無い為、結局青年の言葉に従うこととなり、そのまま朝食が用意された卓へと進む。


 会話も少ないが、穏やかとも取れる食事の時間は過ぎて行く。
 青年は何も言わず、空となった二人分の食器を下げ、流しに置いた。

「さて、これからの方針と言う物を決めておこう」

 食事から少し経ち、青年はそう話を切り出した。
 語るべきことであるから仕方なく、そうした印象が覗き見える。

「方針とは、何を」

「君と君の刀の今後について」

 そう彼は短く言葉を切った。
 一瞬呆気にとられた少女は、そのまま質問へと転じた。

「何度も話し合われて来たことではありませんか」

「君の意見を全て無視した類の物ならね」

 確信を付いた答えは、淀みも無く返される。
 彼の言うとおり、人里に保護された少女の待遇等は、全て里の人間にとってどう扱うべきかを決める為の物では在った。
 少女は思い通りに動くことが出来ない状態を鑑み、その意向に反発することも無く、ただなるように身をゆだねていただけに過ぎない。

「君の意思は昨日確認出来た。けれども、どのように動くかぐらいかは解れば、同居人として面倒が無い」

 同居人、と少女は思わず言い返す。

「つまりは生活する上で必要な情報を僕に提供して欲しい。しばらくは治療に専念するだろうが、それでも何をするくらいかは教えて欲しい物だ」

「何を、と言われましても」

 戸惑いを隠すことが出来なかった。青年が言うよりも、少女の中に明確な行動は思いついては居ない。
 ただ、それでも少女は、曖昧に言葉を濁すことは無かった。

「少しずつ身体を動かそうとは考えています。出来るようになってからは素振り等も」

「ふむ。そしたら時期によって、僕は用意する物もあるだろうね」

「手助けは要りません」

「そういう訳にもいかない」

 きっぱりと否定の意を示す少女。
 対する青年は青年で折れようとは思わないようだ。
 しばらくは意思を込めた視線を交わすこととなり、やがて青年は溜息と共に目線を逸らした。

「どうしても手を借りないつもりか。それなら、質問を変えよう」

 議論の切り口を変えたその様を、少女は刀の切り返しに似た感触を伴う。

「君はあの刀をどのように手入れしていた?」

「血が付いたら河の水に浸して、しばらくしたら振って水気を取っていました」

 少女は正直に答えると、彼は盛大に溜息を吐いた。
 やや演技がかかったような大仰な振りを見て、少女は少しだけ癪に障ったことを良く記憶している。

「水で洗って乾かすだけ、とは……流石に驚いたよ。呆れを通り越してね」

「……刀の手入れなんて、教わったことも無いから……」

「むしろそれであの姿を保っているのだから、奇跡と呼んでも差支えが無い」

 額面通りに受け取った少女は、自身でも驚くほど小さな声で応えた。

「……そこまでですか」

「ああ。やはり本格的に修理を行った方が良さそうだな。専門の者に任せるのが最善だろう」

「ですが、それでは刀を……ここに置いておくことが出来ません」

 傍から離れることに対し、少女は並々ならぬ不安感を抱く。
 常に共に在り、死線を超え続けた愛用の刀は、少女が持つ最後の宝物でもある。
 例え手にした機会が望ましくない物だとしても。


 青年は少女の心の内を理解したのだろうか。それは明確な解を得ず、それでも彼はひとつの提案を挙げた。

「修理には出すが、何回かに分け、途中の状態でも必ず持ち帰る――こんな所でどうだい」

 それでも、と渋る少女に、青年はやや厳しい口調で応える。

「そのままでは刀が可哀想だ。君が万全の状態に戻ろうと言うのなら、共に在るそれも同じであって然るべきだ」

 青年の言うことは一理ある。と言うよりは、完全に正論を述べているのだ、と少女は理解している。
 彼が虚言を並べて刀を盗み取ろうとする人物には見えないが、信用し切ることも出来ない。


 彼の提案を受け入れることは、すなわち彼への信頼を意味する。
 相手を信頼するには、まだ――ひとつ、少女にとって足りない物がある。

「――ヨウム」

「……うん?」

「私の名です。まだ言ってませんでしたから」

 唐突にも思える自己紹介は、青年に戸惑いの表情を浮かびあがらせていた。
 意図を読み切ることは難しくとも、彼はそれでも最大限を汲み取ろうとした。
 その結果は、彼の言葉が如実に示していた。

「霖之助だ。僕の名前」

 やがて仏頂面で彼――霖之助はそう呟いた。
 そうして、少女は青年の名を知る。
 それがたとえ偽名であったとしても、少女にとっては意味を持つ。
 信頼、と言う言葉を体現する為に。

「貴方の提案は私にとって意味のある物です。だから、貴方を信頼して、刀を預けます……霖之助さん」

 根の所で少女は、まっすぐで素直な性格であった。
 だからこそ、相手の名に信頼を載せて、彼の提案を受け入れたのである。
 彼は無表情で居て、どこか嬉しそうに頷いて見せていた。


 日もようやく昇り始め、徐々に里に活気が溢れていく。
 やや長きにわたった今後の行動についての議題は、彼の別の内容のそれにより終わりを迎えた。

「ところで。昨日はよく眠れたかい」

 何気ない質問に、少女は押し黙ったままだった。
 適切な答えを見いだせない彼女はそれでも、正直であろうと言葉を載せる。
 ここに於いて嘘を付くと言う行為を、少女は自身で行うことを許すことは出来なかったからである。

「……夢を見ていました。いつものように浅い物では無く、深かったような気がします」

 昨夜が深い眠りであったろうと言う感覚は、目覚めた直後の感情の揺れを制御できなかったことに起因する。
 夢から覚めて涙を流すことなど、今までにあり得なかったことである。
 目を覚ました瞬間、少女は周囲を確認し、異常な点が無いか察知する癖のような物を持ち合わせていた。
 去来した悲しみに支配されて周囲が解らなくなることなど、以前の自分では考えられないことだ、そう少女は断定する。


 一方でその言葉を聞いた青年は、あまり表情を表に出すことも無く、どこか曖昧さを残していた。

「そうか。身体を休ませるのに睡眠は必要不可欠だ。ただ、君の場合寝たきりと言う訳にもいかない」

「はい。これから散歩に出かけようと思います」

 何せ数日間は全く身体を動かしていないのだから、多少の力の衰えははっきりと自覚している。
 杖による補助は必要だが、それでも充分鈍っている身体に撃を入れることは出来るだろう。
 痛みと共にあやふやである手足の感覚は、すぐにでも改善すべき物である。
 そう少女は見立てを行い、立ち上がろうとする。

「無茶はしないでくれ。僕だっていつでも傍に居られる訳じゃない」

 賛同も否定も行わず、彼は少女の行動を容認した。
 安静にするべきだと青年は釘を刺して引き留めてくるだろうと言う少女の予想は、大きく異なり、故に少女は少し拍子抜けた気になる。
 昨日、彼が述べた動機。それとは一見矛盾しているようでいて、実は芯が通ってはいる。
 彼は少女がそう切りだすことを予測し、そこから起こり得る状況を知るからこそ、その言葉が返せるのだろう。
 それが真実では無くとも構わない。少女はそう判断することで、余計な考えを切り捨てる。

「いってきます」と述べた彼女に、彼は無言で見送った。

 何が大事であることなど、解っていない筈が無いのだ、と少女は一歩を踏み出す。


***


 杖を突いて歩く姿は大変目立ったと言う。
 当の本人は注目されていることなど意に介すること無く、整備された里の道を歩き続ける。


 少女の目的は、周辺の地理の確認と身体の調子を診ることのみであった。
 補助なしでまともに立ち上がれない状態は把握できても、どの部分の外傷が大きいかを判断する。
 わき腹に深く刺しこまれたような痛覚に、思わず顔をしかめる。
 里の外周を半分程回った所で、限界を感じた少女は適度な場所で休むことを決める。
 丁度近くに赤い敷物で彩られた茶屋を見つけた少女は、断りを入れて腰かけることとなった。
 温暖な季節の気温に見合わないほどに全身に汗をかいているのは、まだ本調子ではない身体を動かしているからであろう。
 手拭いのひとつでも持ってくればよかったと、少女は少しだけ悔んだ。
 どこかからホオジロの鳴き声が耳に届き、青空を雲が穏やかに流れ去っていく。
 こうして陽の出た空をじっと眺めるのは何時振りだろうか、と少女がぼんやりと感じている傍で、小さな物音が響いた。
 視線をそちらに向けようとすると、品の良さそうな女性が少女の傍に立っており、そして目線が合う。
 戸惑いを覚える少女に対し、女性は裏表の無い表情で感謝を述べた。

「あんたが里の子を守ってくれたんだってね。とても妖怪退治が出来そうな身体には見えないけど、大したもんだよ」

「……はぁ」

 思わず生返事で少女は答えた。
 その態度を意に介さない様子で、女性は指である場所を示す。
 少女が腰かける場所の近くを指したそこには、ひと串の団子と湯呑が置かれていた。

「噂を聞いてスカッとしたからさ、これはお礼。次来た時にはこんな大盤振る舞いはしないからさ!」

 豪快な笑い声を上げて、女性は建物の奥へと悠々とした足取りで進んで行った。
 しばらく唖然として固まったままの少女はやがて、団子と湯呑を手に取る。
 残さず平らげた後、礼を口頭で述べてから、少女はまた歩き始めた。


 僅かに違和感を覚えた点は、胸にくすぶる何かを少女が察知したからである。
 先程の茶屋での一件は、唐突でいてあまりにあっさりと終わってしまった為、上手く言葉を返すことが出来なかった。
 次に通りかかった時には代金を払おう、そう少女は決意を固め、眼の前の景色に集中する。
 自分が里でどのように話されていたのか、少女は先程の会話で何となく察しがついていた。
 それを意識し始めると、どうにも周囲の視線が気になってしまう。
 尋常では無い生活を経て来た少女であれ、それはどこか居たたまれず気まずくて、身を隠すように繁盛していないような商店を捜し入ることとなってしまった。






 少女の希望を満たす商店は、思いのほか簡単に見つかる。
 外から見ても人が出入りをしていない気配に、通りから僅かに離れた立地。
 都合の良い場所を手早く見付けることが出来て、少女は人知れず安堵した。
 陽が少し傾き始め、店内に射し込む光はやや弱い。
 店内に照明は設置されておらず、それ故に棚に囲まれたその商店の中は独特の薄暗さを保っていた。
 奥には禿頭で壮年の男性が座敷に腰かけており、少女を一瞥すると、手元に在る本に視線を戻した。
 どこかそっけない態度が、今の少女にとっては心地よい類の物であり、内心彼に感謝を述べる。
 視線を左右に向けると、棚に積まれた物の多くは本のようであり、偶に硝子製品や陶器の置物が見受けられる。
 それこそ乱雑とも思えるが、利用する側からすればあまり不便にならない程度に、整頓は行っているようで品物を捜すこともそう難しそうには見受けられない。
 何とは無しに棚の本を見て回り始めた少女は、ある文字が書かれた本の背表紙が眼に留まった。

「これは――」

 棚に挿し込まれたそれは、少女の背丈よりやや高い位置に在った。
 背を伸ばし手を上げて抜き取ろうとするが、容易には手に収まらない。


 それを幾度か繰り返すうちに。
 伸ばした手を追い抜くように、別の手がその本を取りだした。


「『後拾遺和歌集』か。懐かしいな、随分昔に読んだ記憶がある」

 少女より高い背丈に、何処か細さを感じる身体付き。
 銀髪金目は生まれつきなのだと、彼はそう少女に説明をしていたことを思い出す。

「霖之助、さん」

 何時の間に居たのだろうか、同居人の青年、霖之助は少女の背後に立ち、本を手に持っている。

「随分と苦戦していたようだから。これで違いは無いかな」

「……はい。ありがとうございます」

 自然と手に渡った本を捲り、内容を追いかける。
 少女のその熱心な様子を眺めてか、青年は棚から別の本を手に取り、その場で読み始めた。


 後拾遺和歌集はその名の通り、拾遺和歌集の後に製作された、後を継ぐ為に編み出された和歌集である。
 編纂された全ての歌の数は千を超え、原典は二十巻に渡り、各巻には付けられたそれぞれの名に依った内容の歌が収められている。
 少女が手に取った物は、それらの中でも十四巻に相当する物で、後年何巻かを纏めて作られた本であった。
 どこかで懐かしさを覚える少女はふと、ある歌に眼が留まる。
 詠み人は、和泉式部。平安の世に活躍し、歌仙として評価された女性歌人。

「――白露も夢もこの世もまぼろしもたとへて言へば久しかりけり」

 文字を口になぞらえて、再度少女は確認を行う。
 少女にとって耳馴染みのあるそれは、記憶を呼び覚ます。


 そよぐ風のように、優しげな声で歌を紡ぐ声の主は、既にこの世には居ないだろう。
 その歌は、少女の母親が好きだと言った、少女にとって懐かしき過去を象徴する歌だった。


 思わず口ずさんだ少女に向けて、青年は驚いた表情を隠さない。
 しかし、それ以上に自身が行った行動を信じられないように眼を丸くした少女は、ふと見上げた先に青年がいることを認識する。
 やや経過した沈黙の時間ははたして、彼の方が破ることを試みる。

「それは、君の好きな歌なのかい」

 咄嗟に、少女は答えるべき言葉を捜しだそうと足掻く。
 そうでは無い、と言う否定も少女には出来たことだろう。
 たまたま見て気に入ったから、と嘯くことも難しくは無い。
 しかし少女は、偽ると言うどの選択肢も取ることは出来ずに、不器用に言葉を重ねる。

「……はい。私の、母が好きだった歌です」

 それ以上は語る言葉を持たなかった。
 少女は昔年の情を抱く。
 奪われたと言う結果を残した少女の過去は、生み出される憎しみに塗りつぶされることが常であった。
 そうだと言うのに、歌によって引き起こされた思い出は、少女の心に安らぎを与える。

「この世も幻も、短いと言われたそれらは貴方との逢瀬に比べれば長く感じる物だ、か」

「そのような意味なのですか」

 素直な問いに青年は少し驚いて、苦笑を零した。
 
「かなりかいつまんでいるけれどね。恋をするとそのように感じると表現したかったのだろう」

 少女は、全てを間違いなく理解し意味を呑みこむことは出来なかった。

「さぁ、そろそろ日も暮れる頃だ。休息を取った方が良い」

 青年の指摘通り、外は夕焼けの赤に染まり、夜の到来を緩やかに告げていた。
 本を協力の上で戻した後、少女と青年は並んで家路に着く。
 彼が少女の場所に居たのは、彼女を迎えに捜した結果であったことは、後に少女の知り及ぶこととなる。



***
 

 日々の生活はつつがなく進む。
 怪我が完治するまでの期間は、少女にとってやるべきことが見つからない、何処か退屈な日々だった。


 まず始めに刀の修繕が完了した。


 次に里の人、特に子供たちと交流を深めることとなった。
 里に出回る噂には多少なりとも尾ひれが付いて回ったが、妖怪を狩る者という真実は変わらずに伝播した。
 だからこそ少女は剣士として、子供たちの憧れの的となりえたのである。


 次に身体の調子が戻りつつ在った。
 補助による歩行も違和感が無くなり、ある程度の軽い運動ならば支障をきたすことも無い。
 身体に巻きつかれた包帯の数も減り万全の状態に戻るのに、そう時間は掛からないだろうと少女は判断した。


 里の早朝。簡素な平屋の外から空気を断つような音が響く。
 少ないとは言え人の往来のある場所で用いる訳にも行かない為、少女の手には削り出して作られた木刀が在った。
 樫の木を削り出したそれは、青年が自作した素振り用の道具である。
 やや無骨なそれを、垂直になるよう持ち上げて一気に振り下ろす。
 その度に揺れる髪。玉のように飛び散る汗。少女が鈍ってしまった身体の感覚を取り戻そうと行う修業はひそやかに行われ続ける。
 やがて日も高く昇り始めた頃、同居人は里にある住処へと戻ってくる。


 足まわりに泥が跳ねた跡が見受けられる以外、彼の服装に乱れは無いが、顔にはそれ相応の疲労が蓄積されているのだと少女は感じる。
 妖怪退治と言う命がけの仕事をこなして戻ってきた者としては、それは上等な物では在ったが。
 少女はそんな青年の姿を見据えて、声を掛ける。

「おかえりなさい」

「ああ。今戻った」

 共に感情を強く込めず、繰り返されたそれを交す。

「今日の当番は僕の方だったか……やれやれ」

 最近では家での雑事を担うのは青年だけでは無くなった。
 共同体として生活を続ける以上、少女にも負うべき責任と言う物が存在する。
 ただし、少女はまだ完治した訳でもなく、人によっては安静にしておくべき状態なのだが、彼と少女はその点を重要視していない。
 動ける分は働くべきなのだと、そこには確かな不文律が在った。
 青年は手で押さえて首を何度か揺らし、凝り固まった身体をほぐしている。

「お疲れのようですが」

「ん? ……ああ。今日は中々激しかったからね」

 彼の言うことが本当ならば、里にそれ相応の被害が及んだことを意味する。
 抵抗むなしく、命を散らした者もいるだろう。
 そうであるならば、悲しみから朝を迎える人だって、ひとりやふたりである筈が無い。
 そうして何も出来ない無力感を、里の人間は受けいれなければならない
 かろうじて命を拾った者も、昨日までと同じ日々を送ることは出来ない。


 少女は改めて青年を見つめる。
 彼もいつ、帰らざる者になるかは誰にも解らないのだから。
 それでも、里に住む物は何でも無いように日々を暮らす。
 食事をしなければ生きていけない。あらゆる雑事をこなして、ようやく一人前。
 夜が降りるまでは、里は人による絶対的な安全が作り出される。
 だからこそ、人はその日を享受し、生きる為に働く。


 それならば、私は半人前なのだ、と少女は内心毒づく。
 だからこそ、もう安静にすべき日々を終わらせなければならない。

「霖之助さん」

 炊事場で道具を揃える青年に向かって、少女は声を掛ける。
 片手間で彼は答えて、少女は真直ぐに彼の瞳を見つめて宣言する。

「今日から私も妖怪討伐に参加します。闘うにこの身体は支障ありません」

 手を止めて、彼は無言で少女を見つめ続ける。
 瞳には賛成の色はごく薄く見えづらくこそ在ったが、拒絶の意は見受けられない。
 彼は彼の方で、少女の決意が揺るがないことと、それを行う理由も理解しているつもりだった。
 短く息を吐いて、彼は答える。

「僕に止める理由は無いね。精々小言を並べ立てるぐらいしか無い」

「……ありがとうございます」

 その言葉は何処から出ていたか、言った本人は僅かに驚きを表す。
 先日の子供が差し出した礼を受け取った時も似たような言葉が出たが、それとも僅かに違うように少女は感じた。
 彼に報告する義務は、あくまで自己申告の範囲で告げれば良いと言う彼からの提案から少女が見出した物である。


 しかし。青年は少女に行動の制限を課したことは殆ど無かった。
 体調と刀の状態を万全に戻るまでは動かない方が良い、と言う提案は少女自身が納得した上で決めたことで、そこに明確な拘束力は存在しない。
 何も束縛された訳でもないと言うのに、どうして青年の諦めに似た許可を得た際に、礼を述べる必要が在ったのだろうか。
 答えを決めかねる少女に対し、青年は普段通りの自然な表情で、首肯するだけだった。


 ともかく、少女はその日から戦いに赴くことが決定した。
 報告等の小用は、陽が暮れるまでに解決出来るだろう。






 その後、出来上がった朝食を平らげた後、少女は出立の準備を始めた。

「ああ、少し待ってくれ」

「何か」

 玄関先で青年が少女を呼びとめる。
 彼の手には大きめの布と、鋏が握られていた。

「その鋏がどうかしましたか」

「何となく察しは付くだろう? その髪」

 指摘された所で、少女は自身の髪を触る。
 幾つか跳ねてはいる物の肩ほどまでに伸びた髪に汚れは見当たらない。
 首を傾げる心持ちの少女に、青年は盛大に溜息を吐いて見せた。

「幾らなんでも伸びすぎだ。この機会に散髪しよう」

 そのような些細なことか、と少女は一瞥する。

「構いません。不要な部分は刀で斬ります」

「危険な上に油が付く。手入れを行う必要もある。どう考えても無駄が増えるだけだ」

 三四程意見を対立させて、やがて断念した方は、少女だった。

「――解りました。戦闘時に視界に掛かって邪魔な上に、手入れも行っていない私の髪は無作法だと」

「あまり言いたくは無いがそんな所だ。君は相変わらず人の好意を受け入れることに抵抗が在るな」

「私には返すべき物がありませんから」

「なら、ツケで良い。それが嫌なら感謝の一言が等価で良いだろう?」

 どうにも最近、少女は彼のペースに陥れられている気がする。
 青年の言い分には納得のいく点も多く見受けられ、故に従うのだが、そこまで施しを受ける道理が自分には無いと少女は思う。
 しかし結局のところで、彼の口車に乗せられ、こうして散髪を大人しく受ける羽目になってしまった。


 確かに里での生活が始まってから、髪は全く手入れを行っていない。
 精々髪を洗うぐらいが唯一の手入れとも言えるのだが、彼曰く『女性の髪はそれで済むような物でも無い』と無茶苦茶な理論を展開されてしまった。


 切り離した髪が服に掛からないように一枚布を纏い、首から上だけが外気にさらされる。
 椅子を用意された物の、室内で行えば後処理が面倒だと言うことで玄関から出た外で行うこととなった。
 まばらな人の往来の中から奇異の視線を浴びながらも、ふたりは平然と作業に向かう。
 髪を鋤き、鋏を入れる音が耳に心地よく響いていく。
 手とは別に空く口は、自然と青年を饒舌にさせて行った。

「そういえば、最近は子供の遊び相手も努めているようだね」

「ええ」

「剣法を教えて貰ったと、男の子が喜んでいるのを見かけたよ」

「教えたつもりはありません」

 少女は正しい剣の型と言う物を知らない。
 幼い頃に行った練習は、全て自分で編み出した子供の遊びで、実際に命のやりとりを行うようになってからも、ただ生きる為に選択した手段を実行に移した結果でしかない。
 正しい道から逸れた者が、どうして人に物を教えることが出来るだろうか。
 だから少女は、青年の言葉には皮肉が込められているのか、伝え手が一方的に解釈したかの二通りの差異が在るのだろうと判断する。

「仮に私にそのようなことが出来ても、恐らくは剣技を伝えるようなことはしないと思います」

「何故だい? 身を守る手段を刀に頼ったとしても不思議では無いし、強くあろうとするのは男の普遍的な信念だ。剣一本で身を断て、道を究めようとする。男の子ならば誰もが憧れる夢だろう」

 貴方はそうなのですか、と少女は問い返したい気持ちを堪える。
 今はそれよりも、伝えるべき言葉が在るのだから。

「刀はそのような高尚な物ではありません。ただの殺生の為に奮う、穢れたものです」

 そうであることを少女は知っている。
 どのような象徴を刀に滲みこませようと、その本質は相手を斬り殺す為の物だ。
 刀剣に美術的価値が見出されたのは、刀が必ずしも武器として使用されなくなってからだと言われる。
 生み出す刀鍛冶のたゆまない姿勢、振るった剣豪の物語が付与されて、貴重で美しく、鑑賞の対象である刀。
 少女が持ち斬り続けた刀とそれに、どれほどの境界線が引かれているのだろうか。

「斬り、嬲り、突き立て、へし折り、穿ち撒き散らす。刀はそれを体現する為の道具です。貴方の眼にも、楼観剣の用途はそう伝えていたのではありませんか」

 だから、少女はそれを握り、本来の用途通りに使用する。


 少女に主体が在るのなら、刀は殺生の目的を達成しやすくする為。
 刀に主体が在るとすれば、少女は最大の効果を発揮させるために刀身を滑らせる為に在る。


 どちらが主体だとしても、結局は斬り殺す為に刀は存在する。
 剣による道など、と少女は価値を見出さない。

「そうだな。だけど――」

 彼は小さく声を零す。
 乾いた地面に落とされた一滴のように、それは少女の心に染み渡った。

「本来の在り方から外れても、価値が無くなる訳ではない」

 全てを、予め想定された用途通りに用いることは出来ないと、少女は知っている。
 刀は人を斬る物。
 それでも少女は、人ならざる者すら斬り伏せ、復讐を遂げる覚悟が在った。
 己に言い聞かせる言葉は、彼の為に告げることを放棄した。

「……そうです。幻の蝶ですら斬れるように、この刀はそうでなければいけないのだから」

 眼を閉じても、少女の眼に浮かび上がる。煌めく蝶。
 死を呼ぶ死蝶。うつつの存在ですらない物。
 彼女が歩む道の結末には、立ちはだかるそれすらも斬り払っていかなければならない。


 少女の持つ刀、楼観剣。
 一振りで幽霊を斬り裂く程が出来ると彼の眼は少女に告げた。
 比喩でなければ、それは少女の力となる。
 妖も、霊も、鬼ですら斬り伏せることが出来なければ、少女は復讐を完遂できないのだと決意する。

「終わったよ」

 少女にとって唐突だった彼の宣言に、閉じた眼を開く。
 布を外し、身体の自由が利くようになってから、少女は首筋に当たる髪の感触が無くなったことに気付いた。

「鏡は――ああ、あったあった」

 暢気な様子で彼は少女に手鏡を渡す。
 頭に得る僅かな違和感は、映し出された虚像によって明確化された。

「……何を付けたのですか」

 短く、眉に掛かる程の長さで切り揃えられた前髪。
 所どころ跳ねた髪は真直ぐに直され、頭頂部からやや前に当たる位置には、黒いリボンが巻かれていた。
 リボンの先は頭の左側に逃がされ、一瞬少女は言葉の通り得体の知れない物を付けられたのだと錯覚した。
 青年は普段の調子で、何でも無いように答える。

「リボンだ」

「何故」

しばらく答えず、それでも深刻な様子は見せずに彼は言う。

「似合っているぞ」

「……」

 少女は、それに答える方法を知らない。


 曰く、知り合いに勧められた上に頂いたため、有用な使いどころを彼は捜していたらしい。
 丁度髪を切り揃えた時、彼はそれに価値を見いだした、それが青年の行動原理であったらしい。

「動く時に邪魔にならないような結び方はしたつもりだ。いざという時は応急処置にも使えるだろう」

 と、何処か間の抜けた返答を青年は述べる。
 少女はどうしたら良いか解らないまま、

「はぁ」

 と生返事を返すだけだった。


 行動に対する感謝の言葉を忘れたことを思い出す頃には、既に意味を為さないほどの期間を少女は要することとなる。


***


 再び少女が立ちはだかる者を斬り殺す日常を取り戻した時、多少の変容が生じた。


 ひとつは、刀の振るい方が変わった。
 相手の懐に飛び込み、必殺の一撃を与える、と言った物が少女のこれまでの基本的な戦い方であった。
 その姿勢は変わることは無いが、そこに至るまでの行動に、確かな違いが生じる。
 目標に向けて最短の距離を選択し、障害となる物は斬り払うか、最小の被害に抑える方法を選択する少女の動きは、以前に在った苛烈さを失っているようにも思える。
 少女の戦いを間近で見る機会が多かった青年の感想は、ある意味で的を射ている。
 その明確な差は、自ら受ける傷を厭わないか否かの一言に尽きる。


 故に総体的に攻めの回数が減り、相手に与える手傷は、量よりも質に比重が置かれる。
 それでも少女は、妖怪にとって死を与える存在であり、里の人間にとっては唯一とも言える攻め手であった。


 変質のもうひとつは少女の内面である。
 それは、剣を振るう目的に新たな要素が生まれた為に生じた変化であった。
 夜が降りれば少女は青年と共に里の外に出向き、朝が明けるまで妖怪の襲撃に備える。
 戦闘が起きない日もあり、反対に幾人もの犠牲者が出る凄惨な夜も在った。
 少女はその中で剣を振るう。
 それは、復讐を遂げるべき者を捜しだすと言う他に、里の人間を守ると言う結果を生んでしまった。
 たまたま妖怪と人間の戦闘を目撃し、間に入って妖怪を斬り伏せる場面も何度かあり、助かったと感謝の言葉を投げ掛けられた時に、少女に確かな違和感を与えた。
 殺す為に振るい続けた刀が、人を助けることとなる。
 実感として湧かずとも、少女の戦いはいつの間にか里の人間を守るためにも振るわれることとなっていたのである。


 その変化は少女に少しだけ戸惑いを与え、見つめる機会を設けないまま、幾つかの歳月を過ごしていった。

「今日は三匹殺ったらしいな。さすが剣士の嬢ちゃんだ」

 同じように里の警備に当たっていた者が、少女の戦果を褒め称える。
 朝を迎え緊張状態から解放された里の守り手たちは、安堵と疲労感に満ちた身体を家路へと帰していく。


 少女は目礼で返して、青年の姿を見かけてから、彼の隣を歩き始める。
 同居人の姿を確認し、彼はやや疲労を浮かべた表情を崩さなかった。

「お疲れ様」

 青年の労いの言葉は、何処か少しだけ心地よい。
 少女は意識せずとも、彼から発せられる言葉を期待していた。

「それと、それらしい物は確認していない」

「そうですか。ありがとうございます」

 これも数多く交された会話の内の一つであった。
 少女は青年には在る妖怪を捜していると伝えている。
 蝶を象った術を使う人間の姿をした妖怪。
 それを見掛けたら闘うことを選択せず、真っ先に自分の元へ伝えに来て欲しいと、少女は彼と約束を交わしていた。

「せめて稗田家にあると言う、妖怪についてまとめた書を読むことが出来れば、手掛かりが見つかるかもしれないのに」

 それでも少女の捜す者は、未だにその影すら掴むことが出来ない。
 やはり土地が違うからこそここには居ないのだろうと言う、一種の諦めが少女の中には存在した。
 だが、ここは人里を襲う妖怪の数と言う物が、一向に減る気配が無い。
 毎日のように妖怪を斬り伏せていた少女にとって、この地の妖怪の数は異常にも思えた。


 そして、稗田家に在ると言われる、門外不出の対妖怪指南書。
 転生し編纂に生涯を賭けると伝えられる当主は、今の時代には存在しない。

「蝶を操る妖怪に関する記述は無いと思うが」

「どうしてそう思うのです」

 剣呑な視線に、青年は肩を竦めた。

「第八代目当主が編纂を終えたのが数十年前。君が何時からそれを追いかけているかは解らないが、幻想郷で確認出来る妖怪が、それほどに期間を置いて人を襲ったと言うのが腑に落ちない。それならば、その妖怪はこの地で観測されていない可能性が高い」

 まくし立てているように言葉を並べた青年は、「それも全て僕の推測だ」と会話を締めくくる
 少女はその内容よりも、語る彼の様子から、信用に足る物だと判断する。
 まるで彼は、その書を読んで来たように話を進めているように、そう感じる。

「戻ったら先に休んでいてくれ。僕は軽い用事を済ませてから寝る」

 青年は何とは無しにそう告げて、少女はただ頷くだけだった。


 ふたりが住む平屋に戻り、少女は就寝の準備を恙なく済ませた。
 寝床に入り、蓄積した疲労を眠気へと還元させる。
 そうしているうちに、ごく短い穏やかな眠りが訪れる。

「……そう言えば、最近昔の夢を見なくなった」

 感覚を口にした頃にはすでにまどろんでいて、少女に意識は深く落ちて行く。


***


 覚醒を促したのは、ただの偶然だった。
 眠りの淵から覚めない少女は、耳が拾った音に意味を与える。

「……いつも済まないな」

 扉を隔ててくぐもったそれは、青年の声であり、少女は聞き間違えることが無かった。
 距離はそう遠くないようであり、声の発生源は恐らく玄関の辺り。

「何、霊符の消費が増えた分、こちらも潤っているだけさ」

 そして、青年とは全く異なった、やや高い音質の声を少女は確かに聞いた。
 声の感じからして男性には思えないが、変声期を過ぎていなければどちらともとれる声。
 青年と声の主の会話は続く。

「最近はそんなに酷い戦いも無いみたいだし、貴方の使い方が頻繁になったのは何故でしょうね」

「……簡単にはくたばれなくなってしまったから、かな」

 くすくすと笑い声が響く。
 それは少女に何処か妖艶な印象を与える。

「守る者は貴方か。それは中々に面白い。『あれ』は、ひとりでも生きてこられたしこれからも変わらないと思うけれど?」

 青年が守る物について声の主は言及する。その者は独りであっても変わらないと。
 それに該当する者を、少女は勘付かない筈が無い。

「人は簡単に変わる物だ。逆に言えば、そうして変っていくことも出来る」

「そうか、貴方は彼女を変えようとしているのか。刀と共に在る彼女から、刀を奪い取ろうとしているのね」

 再度、くすくすと忍び笑い。
 彼を嘲るような笑い声は、盗み聞きしていた少女の胸に、得体のしれない何かを生じさせた。
 胸が熱くなり、思考がうまく回らない。
 ただ笑い声が、少女の脳裏を通り抜けて行った。

「僕は彼女に生き方を選ぶ機会を作ることしか出来ない。選択するのは、彼女自身だ」

「そう。まぁ私にとってそれは些細なこと。精々気を張り過ぎず、身体は大事になさい」

 ざり、と砂利を蹴る音が響く。
 声は最後に、親しげに青年に言葉を掛けた。

「半妖と言えど、一睡もしない生活は身体に毒よ」

 そして辺りは静寂に包まれる。


 少女は、このまま起きて青年に問い詰めるべきかどうかを決めかねている。
 元々この会話は、少女に充てられた物では無く、青年にとって秘するべき物で在るのかもしれない。
 だが、少女の眠るすぐ近くで交された会話は、別段耳に入っても問題の無い、些細なことである可能性も否定は出来ない。
 どちらもあり得る答えは、どちらとも決めることは出来ない。
 その少女の逡巡は、彼に直接問いただす機会を永久に失う結果となってしまった。


 半妖であると言う青年。
 少女に刀を捨てさせる生き方を与えようとする彼。
 どれも正体の解らない声の主から告げられた言葉は、少女の頭を駆け巡っていった。


***


 普段通りに青年に出立を告げて、少女は散歩に出掛ける。
 朝から彼の顔を真直ぐ見ることは、彼女が盗み聞きした会話によって上手く出来ない。
 少女は得体の知れない不安を抱きながら、気を紛らわせるために外に出た。
 親しげに話していたあの声の主に、少女は心当たりが無い。


 そして、彼について語られた物は、さらに少女の心をかき乱す。
 刀と共に在る人生を否定する青年。
 その為に少女と共に居ると彼は答えているような物だ、言葉にしてしまえば何と穿った考えか、と少女は一笑に伏すことも出来る。
 そして、彼に付いて語られた、彼の正体。

「半妖……人間と妖怪の性質を持つ者の名称」

 あまり耳慣れない言葉では在ったが、少女は言葉を正しく呑み込む。
 妖怪とは、人に仇為す化物。
 少女の認識は揺るがない。
 人間と妖怪を分け隔てる者は、その一点にあるのでは無いのか。
 彼を半妖と言った者の正体、その言葉の真意を、少女は考え続ける。


 思考と共に、明確に定まらない足は、何時しかとある場所へ辿りつく。
 意識せずに辿りついたそこは、以前も少女が立ち寄ったことのある茶屋であった。
 初めてここを訪れた時は、杖による補助無しでは辿りつく事が出来ないほどの状態であった。
 そう言えば、怪我をしてからここには立ち寄っていないな、と少女はぼんやりと思う。


 適当に注文を行い、席の端に何となく座る。
 店はそれなりに繁盛しているようであり、少女以外にも数人の客が見える。
 それぞれで話し相手を見つけているようであり、新たな客として少女が座ったことも、彼彼女らには、ごく僅かな注目を集めるだけであった
 里における少女の印象は、『子供には受けが良いが付き合いは良くない』という物でほぼ統一されていた。
 何度か話を振られたこともあるが、その度に生返事を返す少女は会話を楽しんでいるようには見えず。共感も反感も抱くことが出来ない話し相手とは、自然と離れて行くのが常である


 故に少女の許には世間話を交すような知人は多くは無く、かと言って他人に警戒されるような物でも無かった。
 尤も今の少女には、店内で交される他人同士の世間話も耳には届くことも無い。
 彼女の胸中は、仮定と考察によって見出された解答によって渦巻き、意思が伴わない視線は屋根から覗く空を見上げているだけだった。


 少女の中で、解らないことだけに満ちていた訳では無い。
 何故青年がそのような理念を以て行動を共にしているのか、全く無自覚で彼女は日々を過ごしてはいない。
 ただそれが、過ぎ去る日々の忙しさに流されて考える機会を失っていることに、少女は気付いてしまっていた。
 里での生活を享受していた自覚はある。
 ただ、元より決めていた少女の心の内に在る物は、それらを全て瑣末な物として捨てて行くべき物であったのかもしれない。
 些細な仮定は、これまでの日々を省みることで確かな実感を持つ。


 だからこそ。


 捨てるべきであるものだと言うのに。
 何故か、それを容易に決めることが出来ない。

「――妖夢」

 声が聞こえた。それが現実を伴った現象であるかどうかを判別できないほど、少女の意識は深くまで沈んでいた。
 名を呼ばれたと感じた少女は、視界の端に訪れた変化を受け止めた。
 太陽に雲が掛かるように、見えている物が何かに覆われる。
 空を見上げていた自分の前に被さった影の正体が、人の姿であることに、少女はすぐに気付くことが出来なかった。

「可愛いお嬢さん。隣、いいかしら」

 そして影の主は、幼さを残した柔らかな声を発した。
 少しだけ身を起こした少女は、声の主が自分とそう変わらない年頃の少女のであることに気付く。
 断りに対する返事も待たずに、その少女は席に腰かける。
 千草鼠の落ちついた色合いの着物とは対照的な、髪の鮮やかさに少女は一瞬目を奪われた。
 それは少女に桜を彷彿とさせ、薄桃色の髪色は、現実離れした印象を彼女に与えていた。

「すいませーん。三食セットふたつくださーい」

 笑顔で店員に呼びかけ、隣に座る娘は団子を注文している。
 のんびりした様子の相手に対し、少女には新たな疑問が湧き立つ。
 果たしてこの娘が、少女の名を呼んだのだろうか。
 記憶に存在しない姿の少女に対し、何処か違和感を覚える。
 何か、何処か昔に会ったことがあるような気がする、この感覚は何なのだろう?

「ねぇ、貴方腕の立つ剣士なんですって?」

 用意された団子をほおばり、好奇の眼を隠さないまま。少女は唐突に問い掛けられた。

「いや……私は」

 面食らった少女は、思わずまごつく。
 純真さを表したその瞳に、僅かに少女は後ずさる。
 身体を寄せその行為に対して、少女は躊躇を持って受け入れた。

「その刀で、人を守っているのね」

 焦げ茶色の瞳は、少女の手元に置かれた刀へと視線を落とす。
 優しげな瞳は、先程までの外見相応の無邪気さを何処かへ追いやっているに思えた。
 その瞳に魅了されたかのように。

「そう……かもしれません。いつの間にか、そのようになっていたようですが」

 気付けば、少女は言葉を紡いでいた。
 それは自らの心情を吐露する、剥き出しの言葉だった。

「私は、解らなくなってしまいました。進展も無く、未だに目的は達成することが出来ず……このまま流されるままに任せてしまっている」

「今の生活は嫌い?」

「……そう、ではありません。慣れてしまっている、私自身が好ましくはありません」

 少女は一点を見つめて、ただ素直な心を言葉に表す。
 視界に入らない彼女は、どのようにして自分を見ているのか。
 初めて会ったばかりの相手に、無様に愚痴を零して、さぞ呆れていることだろう。
 それでも少女は止まらない。
 伝えなければならないと思う心は、他者へでは無く自分自身に向けられた言葉であった。

「果たさなければ、浮かばれない人たちがいます。私はその為に生きていたと言うのに、放棄することなど出来ません」

 結局、少女が刀を振るう理由は変らない。
 幾ら名分が発生しようとも、目指した志は変わらず、それが途中で断ち切られたことも。
 復讐へと歩み始めた道を降りることは出来ず、もとより少女にその選択は無い。
 仮に誰かが――青年がその道を用意したとしても、少女はそれを選ばない。

「貴方、他人の為に生きているのね」

 驚いたような感想に、少女は首肯する。
 その点は、間違える筈は無かったのだ。
 例え今の日々が、少女が幼い頃に誓った、守る為に振るうひと振りの刀で在ることも、もはや些細な物でしか無い。

「それはそれは素敵な心がけね。でも、死んだ人の意思なんて」

 称える声援は、唾棄するように変っていく。
 それほどに、彼女の変化は劇的だった。

「生きている限り聞くことは出来ないのよ」

 そうして、達観したような口ぶりで、彼女は言葉を締めくくる。
 幼さを隠さない無邪気な様子と、全てを見透かしたように悟った態度。
 どちらが彼女の本質なのか、少女には見極めるだけの能力も経験も、その時には不足していた。
 おもむろに立ちあがった薄桃色の髪の少女は、出会った時と同じようにたおやかにほほ笑んで見せた。

「これは、面白いお話を聞かせてくれたお礼。また聞かせてくれると嬉しいわ」

 そうして、少女は去って行った。
 後に残された物は、二人分の茶菓子と空になった湯呑だけだった。


 その姿が見えなくなってから、少女は気が付いたことを呟く。

「……代金は私が払うのですね」


***


 怒号あるいは悲鳴。
 人里からそう離れてはいない森の傍で、彼らは叫ぶ。
 己の生を呪うかのように苦悶の声を振り絞る男性は、間もなく命を摘み取られる所であった。
 一陣の風と共にその場に到着した少女は、妖怪の群れと、囲まれた人間の姿を目撃する。
 いや、妖怪とは対照的に、既に動くことを剥奪されたそれは、人だったと言う物でしか無く。


 暗がりでもその顔を少女は見てしまう。
 横たわった頭には恐怖に表情をゆがめたまま固定され、その顔立ちは少女の知る人物であり。
 少女が里で暮らしていく内に知り合えた、親しい者のひとりだった。


 歯を食いしばり、切っ先を上に上げ、前進。
 狩った獲物に舌鼓みを打つ妖怪が、両断する一歩手前まで斬り裂かれる。
 表情には驚愕が映し出され、そこから変化する可能性は少女によって永久に剥奪された。
 新たな襲撃に狼狽した妖怪は、反撃への手番を放棄する形となってしまった。
 少女はその隙を逃さず、一太刀を加え、妖怪に死を与え続ける。
 振りかかる返り血も厭わず、数度の剣閃の後、立ち上がる者は少女だけと言う結果が残される。

「……すみません」

 視線を人間の骸へ向け、少女は言葉を零す。
 弔うべき猶予は少女には与えられてはいない。
 夜はまだ終わる気配を見せず、この場に留まって時間を消費するわけにはいかなかった。
 それでもせめて、と少女は彼に瞳を閉じさせる。
 穏やかではないその表情は変わることも無く、過ぎ去ったあとには骸が横たわる静かな空間が在るだけだった。


 静寂はまだ訪れることは無い。
 陽が昇るまで、人は恐怖に抗い続ける。
 それは、人間の側に寄って立つ半妖の彼も同じであった。

「……っ」

 青年は脇差しを構え直し、眼の前の敵と対峙する。
 豹を見る者に思い起こさせる外見は、黒毛に覆われ、周囲の闇に溶けるかのようにその存在を希薄にさせる。
 爛々と煌めく金の瞳が、青年の姿を射抜くように見つめる。
 つい先程妖怪の襲撃に対応することが出来たのは、彼の持ち前の反射神経と行動に移すまでの時間的猶予が彼に与えられていたからであった。


 彼は元々、刀を用いる戦いは想定してはいない。
 あくまで牽制の為にそれを所持し、また他者に彼の姿勢を誤認させる用途が在った。
 実際の所青年を目撃した者は、刀に命運を賭ける剣士と言う印象を刷り込ませることはままある。
 特に初めて対峙する相手にとっては、刀を提げているか否かで青年への対応を変えることも少なくは無い。
 だが、あくまでそれは腰に提げていることが最大の意味を持ち、それ以上の使用方法はあくまでも副次的な物だと彼は捉えている。


 そう言えば、以前少女が出立する青年に向けて『装備はそれだけで良いのか』と訊ねられたことが在るな、と彼は思い出す。
 少女にとってみれば、彼の装備は脇差一本に見えているのだから、それは妥当な判断だろう、と彼はその時感じていた。
 彼は刀に自身の運命を委ねる行為は選択しない。
 だからこそ、構えを取り妖怪と対峙する手段は、あくまで次への布石となる。


 構えを僅かに緩めた瞬間。
 妖怪は飛び出し、人間を喰い殺す為に口蓋を開く。
 走破する時間はほんの一瞬。
 それも彼にとっては、想定の域を出ず、故に彼は右手を開き、胸元にそれを忍ばせた。
 獰猛さを表した唸り声の前に、一枚の霊符が展開される。


 彼が里の防衛に当たって常日頃から使用するそれは、簡易ではありながら充分な強度を誇る防御結界を展開される。
 効果が及ぶ時間はごくわずかであったが、それを用いるに専門の知識も、霊力も必要の無い為、使おうと思えば里のどの人間にも使うことが出来る。
 彼は入手の困難さから、それを所持する者は自分一人で在ることも知っていた。
 充分な数を用意できない物は、彼が生き残る為に最大限用いられる。
 霊的な障壁を目前に発生させられた妖怪は、その勢いを殺すことが出来ずに、綺麗な放物線を描いて弾かれた。
 そしてそれは、彼が逃げ出す為に、充分すぎるほどの隙を見付けることが出来た。

「三十六計逃げるに如かず……だ!」

 彼は出来うる限り妖怪との衝突を避けることを優先した。
 そして、他人の助けを借り無いことも彼の中では徹底された意識が存在する。
 そうして彼は距離を取り、逃げることを続ける。
 朝が訪れるまで繰り返されるそれは、途方も無く不毛な争いだった。
 大抵の妖怪は中々捕まらない獲物を追いかけることに飽き、障壁との激突により蓄積した霊的な傷を受け、青年の捕獲を諦める者が大概だった。
 彼はそうして妖怪を避け続けてきた。
 少なくとも、朝まで続く追いかけっこに、彼は負けたことは無い。


 脇差は既に鞘に仕舞われ、全速力で駆ける為だけに意識を集中する。
 しかし、彼の想定を超える事態が発生し、一瞬判断が遅れてしまう。
 後方に存在する筈の妖怪は、彼の進行方向で、体勢を整えた姿で獲物を見据えていた。


 舌打ちを堪えながら、彼は霊符を取り出す。
 すでにそれは、後手に回ることを意味し、その優位を妖怪は見逃さなかった。
 跳躍により距離を最小限にまで詰め、獲物を地面に伏させる。
 上体を取られた青年は、抵抗する為の行動の選択肢を大幅に狭められていた。
 開かれた口からは犬歯が覗き、青年の喉笛を狙う。
 見開かれた眼が血に染まる錯覚を彼は持ったが、それが現実に成ることは無かった。


 不意に、事象が発生する。
 妖怪の身体が浮き上がり、青年の拘束は解除される。

 状況を把握できないまま身体を起き上がらせる前に、青年は確かにその声を聞いた。

「――霖之助さん!」

 その名を呼ぶ声に、彼は覚えが在った。
 視界を上げれば、鞘を持たず刀を握る少女の姿が在った。

「君が助けてくれたのか……済まない」

 起き上がったところで、青年は足元に転がる物を見つける。
 少女が持つ長刀を収める為の鞘を拾い、青年は周囲を改めて警戒し始めた。


 退治するべき敵を捜す少女は、戦闘を繰り広げている妖怪と人間の姿を確認した。
 人間の上に乗りかかる妖怪は、まさに今止めを刺そうと動き、対する人間は充分な抵抗を行えるようには見えない。
 不意に、断末魔を上げる人間の声を思い起こす。
 この瞬間こそが、命を摘み取られる最後の瞬間であり、反攻の芽は摘み取られていく。
 そうして幾つも死を迎えた人間の姿は、少女の良く知るその青年にも適応され――気が付けば、少女は腰に挿した鞘を抜き放ち、それを投げつけた。
 妖怪にとって予想しなかった方角からの奇襲は、予想以上の効果を与え、その妖怪は姿を隠すようにそばの茂みの中に身を投じた。
 撤退したようにも取れるその状況は、残された青年と少女に緊張の糸を張り巡らせる。

「逃げた訳では無いのだろう」

「私の傍から離れないで下さい」

 青年は頷き、手渡すことも出来ないままの鞘を持ち、少女の許へと寄る。
 静寂が支配する場に於いて、風にそよぐ草の音が一際強く聞こえる。
 少女はひとつの方向へ視線を定めたまま、視線を動かそうとはしない。
 瞑想に入ったかのように微動だにしない少女の背中を、彼は見守ることしか出来なかった。
 胸に潜ませた札を手に取る以外は、彼に備えることが出来る物はそこには存在しない。


 咄嗟に鳴り出した草をかき分ける音に、彼は緊張に張り詰めた視線を送る。
 身構えた青年は、飛び出て来た者に対し、霊符を反射的に投げ付けていた。

「……!? これは、偽物か!」

 障壁に弾かれ浮かびあがる物体は、妖怪の姿を為していなかった。
 四肢を投げ出したそれは、人間と変わらずシルエットを形成し、また外見に妖怪が持つ特徴らしきものは見受けられない。
 それが用意された人間の死体で在ることを確認出来た時は、彼にとって遅すぎた。


 瞬間、金切り声とも取れる耳障りな叫び声が、彼の背後で響いた。
 振り返った青年の眼には刀を振り下げた姿勢のまま固まる少女と、飛び越えたままの姿勢で地面に横たわる妖怪の姿が在った。
 彼が陽動に視線を奪われていたごく僅かな時の中で、既に少女は妖怪を斬り伏せてしまっていた。

「まだ、終わってはいません」

 少女のその宣言を契機とするように、横たわった妖怪は姿勢を戻し立ちあがる。
 右肩から先が大きく斬り裂かれているのか、赤い血が妖怪の黒毛を濡らしている。
 眼からは敵意の色が消え去ることは無く、その眼差しを少女は正面から受け止める。

「待て」

 青年は、構えを直す少女に向けて静止を促した。
 少女は姿勢を崩すことも、言葉で応えることも無い。

「その妖怪に、もう闘う意思は無い」

 少女は振り返りたい欲求を精一杯堪える。
 敵意を向け続ける妖怪が、徐々に後ずさりを始めていることに、少女は彼の言葉によって気付くこととなる。

「あの一太刀で、既に勝敗は決している。負けても生き残る為に、あの妖怪は精一杯堪えているだけだ」

「それでも、人を襲う妖怪は斬るべきです」

 理性を超えて少女は言葉を返した。
 禍根を断たなければ、再び繰り返される略奪の可能性を、自ら作るべきではないと少女は言う。 
 語るその様子に、青年は悲しそうに首を振って応える。

「違う、僕が言いたいのはそういうことじゃない。僕はただ、君に無益な殺生をして欲しくないんだ」

「貴方のような戦い方では、いずれ命を落とします。倒す為では無く逃げる為に振るわれる力は、ただ傷つけないつもりになっただけの、弱さです」

 否定には否定を持って、少女は淡々と意思を告げる。
 彼の瞳を真直ぐに見詰め、そして少女は青年の瞳に映る感情の色を認識する。


 だが、それを行った代償は、少女にはあまりに大きく。
 視線を外されたことにより、妖怪は俊敏な動作で逃走を始めた。
 動作により発生した音に意識を戻しても、少女には遠くへ消えていく妖怪の姿しか見掛けることしか出来なかった。

「……どちらにせよ」

 静寂の中、青年は話を続けた。

「あの怪我では、しばらくは満足には動けないだろう」

 結果は、彼の望む物となってしまったのかもしれない。
 妖怪をこの手で殺すことの出来なかった後悔と共に、少女には胸に留まる安心感のような物があると察知する。
 彼を失望させないこの結果を、望んでしまった己に戸惑い、少女はすぐにそれを隠した。
 闇夜に己の姿を見せないように、歩みを進め、背後に立つ筈の彼に言葉を投げかけた。

「……別の所へ向かいます。まだ夜は明けません」

「斬りに行くのか、妖怪を」

 少女は無言で応える。
 進み続ける背中が見えなくなる前に、彼は呟くように言葉を吐き捨てた。

「――そうやって何もかも切り捨てて行くのか。君の目指す道は、そうしなければ進めない物なのか」

 その答えを、少女は返すことが出来ない。
 自らの意思を伝える手段を、少女は見付けることが出来ずにいた。


***


 里に、幽かな変化が訪れる。
 それは唐突であり、だが彼らにとって意味のある行為であった。
 少女が青年を助け、妖怪を仕留め損なった夜に、里の入り口近くで防衛を行っていた人間たちの前に、ある者達が現れた。


 その者は妖術を用いて、殺到する妖怪の群れを一掃してみせた。
 青年と少女が駆け付けた時には、すでに全てが終わった後だった。


 松明の灯りに照らされ、里の屈強な男衆が何人も集まって、何かに取り巻いている。
 一様に表情に陰りは無く、青年はその中の一人へと声を掛けた。


 離れてそれを眺めていた少女は、青年が戻り状況を把握するまで、ただ待つことしか出来ない。

「どうやら、怪しげな術を使う人間が妖怪を退治したらしい。あれは、それの周りにたむろしているだけのようだな」

「妖術使い、ですか」

「顔を見たが、里の者では無いようだ。何処からか流れて来たようだが……」

 そう言うと彼は、何かを深く考える素振りを見せる。
 自身の言ったことが腑に落ちないように、時おり言葉を漏らしては、思考の内に入っていく様に少女は気付く。






 結局少女は、その者の姿を見ることは適わなかった。
 唯一解ったことは、その術を披露してみせたのは、少女とあまり年の変わらない子供の外見をしていた、それだけであった。


 朝が訪れ、人里は一層の賑わいを見せていた。
 人々はそれぞれ、新たな話題に華を咲かせ、ひと時の慰みを得ていた。

「妖怪退治の専門家がこの地を訪れたらしい」

「しかも、ひとりやふたりでは無いらしい」

「これで、里も安泰だ」

 彼らの希望を委ねるように、新たな来訪者を、人々は歓迎しているようだった。
 青年は状況を把握する為に里の代表者の許へ赴き、まだ戻ってはいない。
 少女は浮足立つそれらとは切り離すように、普段と変わらない生活を過ごすことを決めた。


 この頃、少女は子供たちの遊び相手を務める機会が増えていた。
 こうした役割は元々青年が担っていたらしく、良く彼の家を訪れる子供が多く、そこに住むこととなってから、少女との接触も自然と増えて行く。
 子供との付き合いは苦手だと自覚していた少女はそれでも、日々を重ねるごとに徐々に打ち解けていき、懐いてくれる子供の数も決して零では無い。
 特に以前、妖怪との戦闘の結果助けた女の子は、良く少女を目当てに遊びに来ることが多い。

「ねぇ、お姉ちゃんは行かないの? 妖怪退治の人がやってきたんでしょ?」

 そうしてこの日も少女と遊びに来た子供たちは、無邪気にそう訊ねた。

「すっごい強いらしいんでしょ? お姉さんとどっちが強いのかな」

「馬鹿、姐さんに決まってんだろ」

 思い思いに感想を伝えて、少女はやや辟易していた。
 身体を動かす遊びは気が楽だが、こうして話し相手を務めることを少女は苦手としていた
 そも自分に話すことも無い為、大抵は子供の話し相手になるぐらいしか、出来ることは無かったのだけれど

「私も本人を見ていませんから何とも言えませんが……見掛けてもあまり近寄らないようにして下さいね」

「何で?」

「その人が、あなた達に危害を加えないと言う保証はありません。それにご迷惑をおかけするかもしれませんから」

 少女は、その新たな来訪者に警戒を解いてはいない。
 これまで起こらなかったことが起きたことには、それなりに背後の事情と条件が在って叱るべきだと少女は考える。
 まずは青年の情報を聞いてから、行動に出たほうが良いと彼女は考えていた。 

「あ、そう言えば。昨日猫を見たの」

「猫なんて何処にもいるじゃん」

 興味が別の方へ移ったか、子供たちは別の話題で盛り上がる。
 聞き流す程度に耳に入れる少女は、初め何ら興味を抱くことは無かった。

「でもね。真っ黒の猫でー、前足だけ色がちょっと違ってたの。おいでってやったら、逃げちゃったんだけどー」

 少しだけ違和感を覚えた少女は、話す子供に視線を寄こした。

「その猫、尻尾が二つあったんだ。よろよろしていて動きが遅かったから、絶対見間違いじゃないよ」

 えー、と口ぐちにはやし立てる子供たちとは対照的に、少女は口を固く引き結ぶ。

「それは、何処で見かけたのですか」

 自身でも良く解る程の冷たい声で、少女は子供へ問い詰める。
 やや怯えを含んで答えた子供に、少女は礼を述べた。

「解りました。もし見掛けるような事が在っても、今後決して近づいてはなりません」

 その様子が冷たく高圧的であった為か、少女に向けて投げ掛けられた問いは、弱々しい物であった。

「その猫は、妖怪です。人に仇為す、危険な存在です」

 前足の色の違いは、流した血が固まって出来た色である。
 その答えに揺らぎは無く、子供が目撃した猫とは、少女が以前取り逃がしたあの妖怪に違いないだろう、という結論を出していた。






 刀を携え、里の中を少女は走る。
 その姿は、道行く人々の眼に留まり、不安を抱かせた。
 猫を捜しているようには思えない殺気を出し、道行く人に問いかける。
 されど少女のその姿は、体験した者も忘れるほどの些細な物にしか成りえない。
 断片的な情報を集めて、遂に少女はその場所を捜しあてた。
 路地を抜け、人気の無い、入り組んだ場所へ。
 そこは今は使われていない屋敷の一角にあるごく僅かな空間だった。
 屋敷の管理を行っていた人物は既に他界しており、親族も居なかった為取り壊されることも無く、里はそこを持て余したかのように放置していた。
 この場所であれば確かに人目に付かず潜伏することも不可能では無い。
 少女は刀に手を掛け、いつでも抜き放てる用意を完了させる。
 もしもこの場に居るのであれば、遮蔽物も多く隠れやすいという点に於いて、待ちうける側にとっては非常に都合が良い。
 全方向に神経を集中させながら、少女は足を一歩ずつ進めて行く。


 かた、と物がぶつかる小さな音。
 それを契機に、騒々しく何かが暴れるような物音が、屋敷の中で盛大に響き始めた。
 即座に少女は反応し、建物の中に飛び入る。
 果たして、そこに居た者は、少女の予想をはるかに超えていた。

「ん?――どうしたの、こんなところに来て」

 少女の姿を確認して、それは不思議そうに首を傾げている。
 金の髪色に、深い黄の瞳。
 背は少女より僅かに背が高く、何処か異国風の服には、青の下地に文様が刻まれていた。
 整った鼻梁や身体付きから、性別を判別しづらく、少年とも少女とも見て取れる。
 その者の姿を、少女は今まで見掛けたことは無かった。


 だが、その者の正体よりも、それが抱えるように持つ物を見かけ、少女は剣を抜き放った。
 その人間は、黒い猫を抱き、腕からはみ出るように見える尻尾は、二尾に別たれていた。
 澄んだ声で、少女の行動を緩やかな息を吐いて人間は答えた。

「不言実行、かい?」

「警告します。今すぐ手に持つそれを放し、ここから離れて下さい」

「嫌だ、と言ったら」

「貴方ごと斬りたくはありませんが、止むをえません」

 義務的に答える少女に対し、困ったように笑む。
 どこまでも中性的に思える外見に、少しだけ女性らしさが覗く。

「この子は怪我している。放すなんてかわいそうなことは出来ない」

「手当てをするつもりですか? それは、妖怪です」

「妖怪なら救いは不要と言いたいの? 見付けたら一方的に殺せと?」

「でなければ、それは再び人を襲います」

 現に人里への侵入を許している以上、その危険性は高まっている。
 身体の調子が戻れば、すぐにでも人を襲い始めるだろう。
 少女のそうした見立ては、おそらく里の人間ならば自然に思いつく考えでも在った。
 妖怪と人間は決して相容れない。それこそがその地に生きる人間の共通観念だった。

「恐慌状態に陥った国の民みたいな妄言に従う訳にはいかないよ」

「何故です。どうして貴方は妖怪を助けようと」

 だからこそ、少女は相手の言い分が理解出来ないと言葉を繰り返す。
 助ける道理も無い、そう少女は疑いなく想いを抱く。

「それは、君にもそっくりそのまま返せる質問だと思うけれど?」

「何を言って――」

 返す言葉は、続かなかった。
 女性は、冷たさを感じさせる声で、少女の思考を代弁した。

「半妖だって妖怪だ。お前の論理は、ただ斬る為の理由を押し付けているだけにしか聞こえない」

 そうして、彼女は薄く笑んだ。
 笑わない眼で、少女を見つめていた。

「なぁ。妖怪斬りの女の子?」

 半妖、それは少女にとって霖之助という青年のことを差す。
 以前顔も知らぬ誰かが言った言葉は、彼自身が口に出したことにより証明が済んでいた。
 それに対し、少女は害を為す妖怪を斬るだけだと、彼を妖怪と言う括りから除外した。
 だが、初対面で在る筈のこの、妖怪の猫を抱える女性は。
 何故少女が、青年と言う半妖の存在を知っていると言うのだろう。

「貴方は、何者です」

 疑問はそのまま口から漏れ出る。

「この地の管理人の代理人、かな。怪我をして満足に動けないから助けに来たはいいが、あまり人前には出たくなかったんでね」

「管理人――?」

「結界に閉じられた、人と妖が共存する楽園。今は、その準備期間と言った所だ」

 少女はそれの意味を把握しかねている。
 結界に閉ざされた地。
 それ以上に、『人と妖が共存する』楽園だと、彼女はそう嘯いた。

「妖怪の数はそれに併せて入る数が増え、粗野な連中は欲望を制御できなくてな。放っておけば人間が全滅して共倒れだ」

 やれやれと女性は肩を竦める。

「だからこうして偶には里に戦力を補充しないといけない。武器を与えたり、術師を斡旋したりと、結構忙しい」

 そして、少女の記憶が呼び起こされる。
 襖越しに青年と交す声の主、その声は、随分と忘れていたけれど。
 眼の前に立つ、女性のそれと良く似過ぎていた。

「でも君は想定外だった。まさか刀一本だけで、今まで生きてこれたのだから。おかげで馬鹿な妖怪の数も減ったことだし、徐々に里は平和になるよ」

「だからと言って、被害が無くなる訳ではありません! 貴方が本当にそうであるのなら、今すぐにでも――」

「無理。まだ血は流れる必要がある。この地の人間が食料になることもね」

 含みのある言葉は、少女に言葉の綾を読み取らせるほど明確では無かった。

「この結界は出来てからまだ日は浅くない。完全に機能するまで、こうした流れは続くわ」

 それならば、里の人間が抵抗し続けた日々は。
 管理者と名乗る者が調整した結果出来上がった、想定内の被害であったと言うことになる。
 再び朝日を拝める為に闘う、そう言って死んでいった者達。
 仇を討つと、己の命を削った人間たち。
 それすらも、誰かが用意した掌の上で踊らされた結果なのだと。
 眼の前に立つ女性は、まるでそう少女に語り聞かせているように、言葉を紡いでいった。

「それは必要な犠牲なのよ。貴方が今まで殺してきた妖怪の数が、貴方の仇に出会うまでに必要であったようにね」

「……え、?」

「だから、この子ぐらいはそれから外れても良いんじゃないかなってね。痛みを受けたことで、どうやら理性も芽生えてきているみたいだし」

 愛おしげに黒猫を撫でる仕草は、少女の眼には入らない。
 眼が知覚しても、意識がそこに寄る余裕も無いほど、少女は身を前に乗り出し、叫んだ。

「知っているのですか!? 私の、私の全てを奪った妖怪を――!」

 聞き逃すことの無い、仇と言う言葉。
 何故彼女がそれを知っているのか、そして女性の正体が何であるかは、置いていくべき諸々の問題でしか無い。
 何もかも振り払い、それでも見つけられない手掛かりを持つ相手に対し、少女はひたすらに真直ぐであった。
 他人の言葉を疑うことを、妖怪を斬り続けた少女は知らない。

「妖怪では無い。あれは死を操る、幽冥楼閣の亡霊」

 くすくすと、女性は笑みを零す。
 それはやや幼い外見には不釣り合いな、見る者に脅威を与える策士のような笑みだった。


 にゃあ、と猫が小さく鳴く。
 その鳴き声を知覚した途端、少女に猛烈な立ちくらみを与えた。

「……っ!」

 頭を振り払い、再度剣を構えた先には、住む者がいなくなってから久しい、寂れた部屋があるだけだった。

「既に相手は貴方のことを知っている。彼女の性格を考えたら、そろそろ痺れを切らしてくるんじゃないかしら」

 遠くで聞こえた声を、少女は聞き逃さなかった。

「復讐の先に何があるのか、見させてもらうとするよ」

 胸に刻まれた言葉は、再び少女を元の姿へと変えさせる効果が在った。






 幾つかの時は過ぎて。


 少女は遂に、この手で斬るべき物を知る。


***


「改めて聞くが、ここに留まるつもりは無いんだね」

 夕暮れも終わりを迎え、里はただ静かであった。
 これから起こり得るであろう命のやりとりの苛烈さからは予想の出来ない静寂。
 いや、嵐の前の静けさと言うのは、このような時にこそ相応しい言葉なのだろう。


 青年は希望を少女に訊ねていた。それが決して額面通りの意味は無くとも、少女は少なからず知っていた。
 彼女は首肯して答える。何故なら、それこそが彼に誠実に答える唯一の方法であったから。

「私はただ一本の刀であれば良かった。一振りの刃が断ち切り、奮う者の力になりたかった」

 少女は、誠実さで以て言葉を重ねる。
 自身を偽らず、あらゆる物を断ち切るような真っすぐとした剣閃の如き真直ぐさで。

「私は結局、斬りたい物を切る為に刀を振るって、幾つもの命を奪ってきました」

 少女に後悔は無い。悔むべき感情を切り捨てなければ、生きて行くことが出来なかったから。
 だが、それでも彼女は過去を振り返ることが出来る。どのようなことが振りかかろうとも、第三者の視点を語ることも出来るようになってしまった。
 だから少女はただ淡々と事実を述べた。


 青年は反論する。復讐から開放され、刀を手放して真っ当な人生を歩んだって、誰も怨まないと。

「そんな人生を送れたのなら、きっと君を守った両親も浮かばれる」

 彼は何処までも優しく、甘かった。夢物語を語り、自らの理想を遂げようと生きる。彼にはそれを為すだけの力が在ると、少女は知ってしまっていた。
 それほどまでに、少女は彼を――霖之助と共に在り続けた。
 だから、別れには、こうして語る必要がある。彼の為にも、少女自身の為にも。

「そうではありません。そうじゃないんですよ、霖之助さん」

 そして少女は、ほほ笑む。青年は、どうするべきを決めかねるような当惑の表情を見せる。
 去来したこの感情の名を、少女は名付けることはしない。
 決意は揺るがず、進めようとする方向に迷いは無かった。
 だが、それでも。

「目的が無くなったからって、私は刀を手放すことが出来ません。貴方が言う普通の女の子になるには――」

 隠すべき奥底までをさらけ出そうとする自身の想いは、一体何だと言うのだろうか。


 声が震えていた。発した自分が驚く程に。

「――私はあまりにも刀を持ちすぎた。そして私は、刀と共に在ったことに後悔も未練も感じていません。これを失ってしまえば、私は私では無くなります。闘う理由が無くなるのなら、斬る理由が無いのなら。きっと私は……理由を自ら作ってしまう」

 それは、やがて訪れるであろう感情。斬るべき物を斬らず、欲望の赴くままに、刹那的にそれを満たす対象は、何だと言うのであろう。
 妖怪は、いつかは狩り尽くされるかもしれない。少女が人里に暮らした数年間での減少数は、その未来が遠くないことを暗示させた。


 そうなれば、また自分は彷徨うのだろうか。だが、それを望まない者が居る。
 彼の為に留まれば、少女は行き場の無い激情を晴らすことが出来ない。
 出来ないからこそ、少女もまた、狂うことが出来てしまう。
 力を一方的に振るう、妖怪や力に溺れた妖怪退治の専門家のように。


 少女が未だに真の正体を見極めきれない、管理者を名乗った女性は、後に里に現れた妖怪退治の専門家達を斡旋した人物で在ることが明らかにされた。
 そして、術を行使し妖怪を一掃せしめたのもまた、その者であると言うことも。
 だが、それ以上の情報は提示されることも無く、次々と命を落とす専門家の人間たちに紛れるように、里から姿を消していった。

「初めてがどんな理由であれ、そうしなければ生きられなかったからって、私は修羅の道を選んだんです」

 始まりは何処からだったのだろう。少女はそれを考える。あの蝶を使う者が屋敷に訪れる、その要因はなんだったのだろう。
 死する筈だった少女はこうして生き延び、今も復讐の道を歩み続ける。
 その為に幾つもの血を浴び、自らを傷つけ、誰も守れずただひとり、自身の願望を満たす為だけに在る生。
 それは、青年の進む道と本質は変わらない。ただひとつ、根底にある、果たすべき手段に付いてだけが明確な差異を以て、ふたりを隔てていた。

「私は、自分の為に決着を付けます」

 ただの綺麗事だ、と少女は自嘲する。

「……我儘を言わせてもらえるなら、私は貴方を守りたい。それが間接的な物だとしても」

 守り刀として在ったと言う祖父に自分をなぞらえて、少しでも正しさを付与させようとする、独りよがりの嘘。


 あれを討つことは、間接的にしか彼を守ることにならないだろう。何せ目的も解らない以上、里が死蝶に襲われると言う確証も無いのだから。
 だから、この理由を付けたことには別の意思が介入する。背を向けた少女に向けて何も考えることも出来ず、ただ闇雲に彼女を引きとめようとした、彼によって。

「行くな」

 小さくとも、意思の込められた声。
 未練を振り払うかのように、少女は普段通りの口調で、顔を見ず答える。

「止めないで下さい」

 只一言。短い言葉の応酬は、未だに続く。
 果たして自分は何を彼に頼もうと言うのだろうか。
 元より留まる気も無く、ただ流されるままに共に暮らした日々。
 その中で得た物など、僅かでしか無い。いや、そうでなければならなかった。
 少女は手に入れた何かを知覚しようとはしなかった。
 それをひとつひとつ噛み砕いて理解してしまえば、この足を止めることになるかもしれないと、頭の片隅で警鐘が鳴らされている。
 そして彼は、少女から得た物の正体を認識していた。
 だからこそ。

「行くな!」

 彼は意識を飛び越えて、一歩前へ進み出す。
 ぎこちなくとも、はっきりとした力で、少女の身体に触れた瞬間。
 青年は少女を抱きしめ、その腕に僅かに震える肩を収める。


 ざぁ、と風が鳴く。
 木々の葉を揺らす様なそれは、やがて静まり消えていく。
 それでも破られない長い静寂。その後、小さな声が空気を震わせる。

「……止めないで」

 願いを、少女は紡ぐ。
 お願いだから、私を止めないで欲しい。決意を僅かでも鈍らせないで欲しい。
 ここの暮らしが気に入ったからではない。里の人を守ると言う生き方を選びたいのではない。
 彼だけを見つめて、共に在りたいのではない。
 何度も、少女は繰り返す――そうでは無い、と。
 過去の傷は、未だに少女の心を抉り、塞がれてはいないのだから。 
 それでも、青年は言葉を重ねる。

「君が何に向かっていくのかは解らない」

 決してその道を歩む必要は無いのだと。
 少女に歩んで欲しくは無いと。

「それでも、解ることはある。それに関わっては、きっと君は戻ってこない。そうなってしまえば、僕は――」

 その先は、続かなかった。青年は少女に想いを告げきれずにただそこに居る。
 あるいは彼には葛藤が在ったのだろう。
 自ら無知を白状し、眼を瞑ることもなく、はっきりと意思のみを伝える内容は、少女が知る彼の話し方では無い。
 彼が何も知らないのだと言う告白を少女は笑うことは出来ない。
 元より教えるつもりは無く、そうである限り青年は少女にそれを問うことも無かったのだから。
 それが少女と彼の間に存在した、互いを尊重する為に引かれた一線であったのだから。
 そうして点では、彼は確かに少女との約束を順守していた。
 だから彼は知らぬままで、少女を引き留めることを実地した。
 それがどのように愚かしい行為かは青年自身が良く理解していることだろう。
 意味を、少女は解らないと反応することは出来なかった。


 彼女もまた、気付いている。
 彼をどう想い、そしてどう応えるべきかを。

「……迷いは、絶つんです。誰でも無い、自分の力で」

 進んで、立ち止まって、転んでも。また立ち上がって、真直ぐに進む。


 それは、少女が自身に課した為すべきことだった。
 泥の中を進み、鮮血を降らせて。
 心を研ぎ澄まし、身体に幾つもの傷を受けながらも、決して立ち止まらない。
 立ち止まらないからこそ、彼女が決めた道に、終わりはまだ無く。

「だから……私は戻って来るんです」

 少女は、その先を見つけていた。
 両親の復讐の先は、どのような結末を迎えようとも、自身の存在意義を消失させないことを決める。
 復讐の先には、何があると言うのか。
 かつて少女に問うた者に、今は答えを返すことが出来る。
 確かに少女は、答えを抱いて前に進むことが出来る。彼を真直ぐに見つめて、帰るべき場所を見出す。
 青年の手が力を失い少女への拘束が解かれる。茫然とした表情を隠さない青年に向けて、少女は再度表情を取繕うと努める。
 上手く出来ていないことなど、鏡を見ずとも容易に解る物だった。

「大丈夫ですよ。仇を打てたのなら、その時はこれを捨てることが出来る。ちょっとだけなら、笑って貴方と面を向かって話すことも出来る」

 ぎこちない笑みを、青年はどのような心情で見つめているのだろうか。
 少しだけ気になり、やっぱりぼうっとしている顔を改めて確認して、少女は自然と笑みがこぼれていた。
 それは年相応の無邪気さを孕んだ。
 親しき者だけに向けられる、ただの強がり。


 言葉には希望を載せ。
 その為にも、自分は闘うことが出来る。

「いつか、美味しいお酒でも飲んで、好き勝手なことを騙り合いましょう」

 そして青年と少女道は、明確に袂を分かつ。
 少女は月光に照らされた夜道を進む。


 青年は眼に映る少女の背を眺めている。鞘を背負い、腰には彼がかつて所持していた脇差が在る。
 遂にそれは、少女の持ち物となった。
 返すあては存在する。無論、自分が生きていれば、の話だが。


 胸に去来する感情に、少女は言葉を選び出す。 
 かつて、彼女の親しき者が好んだ歌。

「――人知れず」

 記憶の奥底に在っても、引っ張り出せば容易に発生してしまう。
 だからこそ、少女は朗々と紡ぐ。
 万感の想いを込めるように、それこそが彼女の覚悟を語る。

「人知れず 物思ふことはならひにき 花に別れぬ春しなければ」

 別れない出会いも無く、そうしたことはいつか慣れてしまうのだと。
 だからこそ、彼女は振り返ることも無く、夜の闇へと消えていった。


 一瞬俯き、再び顔を上げた少女の瞳は。
 復讐のみを糧に生き、前のみを睨み。
 ただ歩みを続ける修羅さながらの苛烈さを孕んでいた。


***


「待ちくたびれたわ」

 静止した時間の中で、確かに『それ』は唇を動かしていた。
 少女の知覚を超え耳朶を突き抜け直接脳髄に響かせるような声。
 その声はたおやかな流れを持ち、澄んだ静謐さを持っていた。


 夜桜の中に、ひとりの少女の姿が在る。
 薄桃色の髪に載せられた水色の帽子は、着物の色と統一され、華やかさを見る者に与える。
 涼やかなその彩りは果たして彩りにしか成らず、少女の表情は幽玄とも思える深さと静けさを湛えていた。
 手には扇子。差し出し広げたその周りには、煌めく蝶。


 生者を対岸へ誘う、死の概念そのもの、死蝶霊。
 触れられれば、魂と魄が別たれ、二度と戻ることは無い。
 対峙する者はそれを知っている。
 彼女の両親は、それにより奪われたことを眼が刻んでいたのだから。


 だが、一方で信じ切れる物でも無い。
 その主犯が、自分と背格好も変わらない少女は、かつての記憶の姿のまま変わらないと言うのだから。

「それはこちらの台詞です」

 自然と少女は敬語で応える。
 緊張を載せ、敬う心を忘れないそれは、どこまでも真直ぐな彼女らしさがある。
 たとえそれが、全てを奪った相手であろうとも。


 少女は、何度もその場面を空想し、形に成る為に生き続けていたと言っても過言でも無い。
 仇であるそれに刃を突き立て、一方的に蹂躙する光景。夢として、幾つもの歳月の中でそれは少女と共に在り続けた。
 心の全てを憎しみに変換し、何に留まらせない直線で以て殺到すべき空想の中の自分は、もはや少女にとって自分では無い別の存在へととって変っていた。
 自身と年端も変わらぬ姿をしている相手の姿が問題では無い。
 記憶の中のそれと寸分の違いも無く対峙していることも。
 たおやかにほほ笑むその姿に、少女は僅かに――心を動かされた。

「ちょっと意外だったわ。もっと激しいかと思っていたのに。人づてに聞いた印象と言うのはあてにならないものね」

 緩やかに息を吐き、桜の木の下に立つ彼女は手を差し伸べた。

「まるで今の貴方は、天寿を全うしようとする直前のお年寄りのようね」

 くすくすと笑い、その口元は広げた扇子によって隠される。
 僅かに吹いた風は木々を揺らし、薄桃色の花弁が舞い落ちて行く。

「何か告げることはある? 伝えたいことや、それを渡したいひとは居るかしら」

「私は遺言を告げに来たのではありません。引導を渡しに来ました」

「この場で切腹でもするの? 介錯役がいないわよ」

「貴方に充てる慈悲は、私に残されてはいませんから」

 皮肉を込め、形骸化した会話をふたりは交す。
 それはまるで、長く付き合うが故に親しげに展開される軽口のようでも在った。
 語り合う必要を少女は感じず、あるいは相手もそうであったのかもしれない。
 少女が生き続けた意味は、この時の為に在り、そこに覚悟は確固として共に在り続ける。


 やや緩慢な動作で、少女は刀を構える。
 八相の構えに似たそれは、介錯と言う言葉によって引き起こされた訳ではなかった。

「あなたが私に押し付けた物を、同じように返すだけです」

 無感情に、無遠慮に、無頓着に。
 奪われた少女の全てを、奪い返しに行く。


 合図はそれだけで充分だった。


 死蝶が彼女の合図によって舞い始める。
 無言の裂帛の気を発し、少女は接近を試みる。
 結末を告げる為の疎通が始まる。


 初めは弾ける音だった。
 瞬時に巻き起こる旋風。動体がひとつの方向へ定まる。
 銀髪の少女は速度の点に於いて、他者を圧倒していた。
 距離を縮める為の一歩はあまりに速く、短い間隔で次の一歩へと繰り返される。


 対照的に迎え撃つ者の動作は緩やかであった。
 演舞のように敢えて速度を殺し、形式による美しさを強調したような扇子の動きは、短い曲線を描く。
 広がる蝶たちは、現世に存在する物では無い。
 煌めく姿に実体は無く、幻の蝶は羽ばたく。
 それは、死を撒き散らす存在で在ることを少女は知っている。
 触れるだけで、魂を魄からはぎ取らせるかのように人々は力を失い倒れていった。
 その情景は、幼い自分が眺めた記憶が今も頭で語りかけている。
 そして、もう一つ、その蝶について少女は知る物が在る。
 身体ひとつ分程の距離までに少女と死蝶の姿は接近していた。
 ひとつの拍を経れば接触する筈のその間に、ひとつの煌めき。


 一閃、さらに加えた、高速の薙ぎ。


 数匹の死蝶は、触れられた鋼によって、両断され、その光は暗闇に溶けて行く。
 蝶を斬ることが出来ると、彼女の父から少女は既に学んでいる。
 彼が命を掛けて少女を守ったが、副次的に対応するだけの事象を少女に教える結果も与えていた。
 何度かの攻防を経て、少女は対峙するに値した距離まで身を詰めた。
 薄桃色の髪を持つ少女は、無感情に言葉を並べる。

「斬れる、って知っていたようね」

 呟いたそれは、蝶の群体とも思える羽ばたきの波にかき消されていく。
 少女はひとつの過ちも許されず、応え続ける。


 襲い来るものには両断を。
 返礼を誠実にこなすように、少女は剣を振り続ける。
 やがて蝶の奔流は徐々に数を増やし、少女を取り囲み続けて行った。
 その様を眺める死蝶を扱う者は、何処か残念さを隠さずに眺め続ける。


 このままかぁ、と彼女は呟く。
 引くことを認めない剣士と言う者は、やがて自らが課した意思によって死を迎えるしかないと、彼女は経験としての知識を得ていた。
 その中でも、例外と言う者は存在し、そして彼女はただひとりを知る。

「――あら」

 小さな声を上げる。
 驚きと微量の嬉しさを含むそれは、向けられた少女には届かない。
 体勢を崩さず、少女は死蝶を斬り払う。
 文字通り切り開かれた僅かな隙間を縫うように、少女はその身を投じた。
 作り出した空間は、丁度対峙すべき彼女に背を向ける形となる。
 木々に姿を隠した少女は、このまま逃げ出してしまったとしても違和感は無い。
 撤退に思える一連の動作は、彼女にそうした想いを抱かせる。

「面白い子ね。まるで手品を見せられているようだわ」

 予想を裏切られる相手の行動を面白く評価するように、彼女の口元は緩んでいる。
 命のやりとりという場に於いてはあまりにも場違いな安らかな表情は決して引き締まることは無い。
 余裕の含まれた緩やかな動作で以て彼女は、扇子の先で方向を示す。
 死蝶はそれに従って舞い、やがて目標によって斬り裂かれる。
 静寂の夜には、ただ閃く鋼の音だけが高鳴り続ける。
 幾十、幾百、幾千を切っても尚、少女は歩みを止めない。
 時には接近を取りやめ、距離を取り安全を確保してから、斬り伏せる。


 逃げてでも生き延びる闘い方は、争いを苦手とする彼から。
 争いを好まない父からは、死の象徴を切り払うことが出来ると教えられた。


 ひとつの失敗は、直接死に繋がる。
 状況から神経は研ぎ澄まされ、疲弊による鈍りを許すことは出来ない。
 常に極限まで高められた感覚は、やがて少女から、音を消失させる。
 僅かな時間の流れすらも永劫のように長く。


 そして遂に少女は見付ける。
 身体ひとつが通ることが出来るかもしれないと言うほどのごく僅かな空間、そこだけは、進行方向にあの死蝶が羽ばたかず、操る者へと続く道。
 次の瞬間には蝶の群れに埋め尽くされてしまうその隙間を、少女は迷いなく駆け抜けた。
 妄執を斬り、幽明を分かち、舞い踊るだけの桜花すらも切り離す。
 それで居てもなお、少女は彼女に届かない。


 一歩、さらに一歩。その度に死蝶の群れは殺到する。
 それでも少女は進まなければ成らなかった。
 歩みを止めることは、諦めを意味する。
 一度止まってしまえば、二度と立ち上がることは出来ない。
 肉体の死を迎えようが、それすらも少女は感知することは無い。
 例え振り絞る力が無くなろうと。

「それでも……」

 その身体に、幾重もの死蝶が少女の身体をすり抜けていく。
 少女は意思を放つ。二度と間違えることの無きようにと。
 握りしめた筈の剣に重さは感じられず。
 振り抜いた先に、彼女は居た。
 死蝶に指示のみを行っていた相手は、少女を容易に迎撃せしめた。
 楼観剣は既に振り下ろされ、次の手に移るまでの要求時間は、少女にとって永遠にも遠かった。
 畳んだ扇子を少女の顔面に突き出される。
 それが致命傷と成らずとも、動作を制御されるだけで少女にとっての敗北を意味する。
 留まってしまえば、その隙に蝶の大群が少女に押し寄せ、生きる力を奪っていくことだろう。
 引くことも、返すことも出来ない一瞬。
 ここでお終い、復讐を遂げることも無く、無為に変わる自身のこれまでとこれから。
 充分にあり得たその結末を、少女は。


 ――受け入れることも無く。迎えた。


***


 夢の出来事だろうか。
 けれど、自分にこのような記憶は無い。
 身に覚えの無い景色に、少女は困惑の感情を隠せないでいた。


 見覚えの無い広い屋敷の庭に、ふたりの人間が距離を置き向き合っていた。
 片方は、少女が良く知る自分の父親だった。
 袴に刀を腰に差したその姿は、少女の記憶には無い物であり、そしてその刀は太刀と言うに相応しい長さを有している。
 拵えの違う鞘に納められても、それが少女にとって馴染みのある刀と同じ者であると言うことを、感覚で理解することが出来た。


 彼の横顔は記憶の姿よりも若く感じられ、硬い表情を隠さない。

「……ご報告の通り、娘には兆候が見受けられませんでした」

 事務的に結果を伝えようと努めて平静を務めながら、彼には感情の揺れを発露せざるを得なかった。
 彼が言葉を伝えようとする相手を視線で追い、少女は息を呑む。
 服装こそ違えど、薄桃色の髪に焦げ茶色の瞳を持ち、時の流れを感じさせない顔立ちに、少女は見間違えることなどない。

「貴方は……!」

 喉から絞り出すように、声は渇き、震えていた。
 それが相手に届いた形跡は見受けられず、その者は呟く。

「そう。期待はそんなにしていなかったけど」

 興味を失ったかのように、その一言だけを漏らす。

「やっぱり、魂魄の才は妖忌の代で使いきってしまったのかしらね」

「……」

「残念だけど、妖忌の不在はこっちでなんとかするしか無いみたい。けれど、その懐にある刀だけは返してもらうわ」

「楼観剣を、ですか」

 重たい空気を吐き出すように、彼は問い返す。
 女性は眉ひとつ動かさず、彼の表情をじっと見つめていた。

「ええ。せめて現役の間は、妖忌に持たせてあげたいから。今の魂魄家にそれは不要でしょう?」

 少女は会話の意味を図りかねずに、茫然と立ち尽くす。
 彼――少女の父が持つ刀が家宝の楼観剣であることは彼自身が語り、また少女も理解をしていた。
 だが、女性が告げた命令の内容に、少女は真偽を決めることが出来ずに居た。
 家宝であったそれが、その女性により与え貸されていたなど、どうやって知ることが出来たと言うのか。
 信じられないの一点で理解を頭に載せることの出来ない少女は、自らの父の姿を見つめる。
 彼は姿勢を変えることなく、背筋を伸ばした無形の型から一瞬――柄を持ち鞘を走らせ、女性に向けて斬りかかった。
 息を呑む間もなく、圧倒的な速度で以て放たれた抜刀。
 瞬時に駆け出し、塀を飛び出した彼は、見事な所作で、その場から消え去っていた。
 途端に、眺めていた少女の意識が揺らぎ、景色が動転し始めた。
 夢から覚めたとしても、頭に響き続けるような頭痛に苛まれながら、少女は確かに見た。
 女性の前に立ち脇差を抜き放った姿の壮年の男性と、無傷のままほほ笑む表情を。

「親子の情とは尊い物なのね。侵してはならない領域を踏み越え、どんなに迷惑を掛けようとも、ただ守ろうとする」

 ねぇ、妖忌。
 女性は確かにそう呟いた。
 だとしたら、あの男性こそ、少女がかつて物語を聞き、憧れた祖父であり。

「いいわ。試してみましょう。ひとが幽明を別つまで、どれほど抗えるのかを」


***




「ああ……そうだったのですね」

 身体の全てに力が入らない。呼吸が出来ているのかすら解らないほどに、曖昧に溶けだしていく意識。
 その中で見た光景は、少女に確かに刻まれた。
 もはやその言葉が届く場所など、何処にも存在はしては居ない。
 けれど、自分自身には届くから、と少女は。
 何かを諦めるかのように、解を述べた。

「初めに奪ったのは……私たちからだった」




***


 崩れ落ちる、銀髪の髪を持つ少女の身体。
 対峙していた彼女は、自身に起こった変化を受け入れる。
 数尺の感覚を経て地面に伏す少女の手に、刀は一本たりとも持たされてはいなかった。

「…………ふぅ」

 短く息を吐いたは、水色に桜の色彩を載せた少女。死蝶を操る、亡霊姫。
 その胸には、深々と剣が――刀身をさらけ出した脇差しが刺しこまれていた。
 やや安堵したように表情を緩ませた少女は、左手で刺さったモノを抜き放つ。
 放たれた身体からは血が流れることも無く、ただ引き裂かれた布だけが、その痕跡を物語っていた。

「いやぁ、危なかったわ。これがただの刀で良かった」

 一瞥を寄こすと、すぐに興味を失ったように脇差しは地に投げ出される。
 それを行った張本人は、もう一つの刀に視線を向けている。
 それは、草むらを掻き分ける音と新たに現れた人物に就いて、まるで初めから興味が無いかのような振る舞いだった。

「幽霊十匹分を斬り殺す刀。もし貴方にそれを突き立てたとしたら、どうなってしまうのですか?」

 問いを発した者は、夜空の鮮やかさを切り取ったかのような青を配した道士服を纏い、金毛を思わせる金の髪を持っていた。
 眼を細めた表情は笑っているようにも見えるが、口はやや強く引き結ぶ表情に向けて、死蝶を操る少女はころころと笑いかけた。

「別に何も。ちょっと痛いかも」

「そういう物ですか。所で、拝見させて頂きましたが」

「覗きは良くないわよ。趣味として」

 親しげに言葉を掛け、受け答えには敬語で以て応える。
 それが、ふたりの少女の関係を優に物語る。
 道士服の少女に、常に監視を行っていることを指摘する。
 薄桃色の髪が風に揺れる様を眼に捕えながら、柔らかく笑みで以て応えていた。

「仕事ですから。それよりも――」

 道士服の少女は、地に伏す人間の姿を眺める。
 その距離は今も変わらず、人間の少女は僅かにも動かない。
 死体を連想させ、それはあながち間違ってはいないようだった。

「貴方に一太刀を当てた時はすでに、あの身体はあそこで留まっていたようですが」

「そうね。死蝶霊に誘われて、肉体は死を迎えていた」

「ですが」

 肯定をされたからこそ、やはり観察していた側としては信じられない。
 道士服の少女の眼は、崩れ落ちる少女の身体からもう一人の少女の姿が現れ、真直ぐに向かって行く姿を眺めていたのだから。

「やはりにわかには信じられません。魂のみで実体を持ち、斬りかかるなど」

 目撃した現象を明確に言葉に表そうとも、そう納得のいく物ではなかった。

「自分の眼に映ったことぐらい信じなさいな。いくら貴方の主が、見えない者を多く扱っていたとしても、絶対の信頼までそこに置いては駄目」

「……そう、かもしれませんね」

 道士服の少女は、その並外れた才覚を、主の為に振るっていた。
 だからこそ、この主の友人である亡霊姫が提案したことにも、ある程度の予測を立てて行動を起こすが出来た。
 刀以外の全てを失い、ただ一振りの刀であろうとした人間の少女に、仇の正体を伝え、監視を続けていたことは、彼女のただの気まぐれなのだと。
 だが、あの現象は、観測を行う彼女の想定外であり、関わる当の本人には起こり得るべき物である印象を与える。
 そこに思い到ることの出来なった自分を、道士服の少女は自戒として重く受け止めた。


 でも、と桜色の少女は続ける。

「誰にだって出来ることじゃないわね。魂と魄を分けて、私に一太刀浴びせた。まだまだ未熟だけど――」

 桜の花が舞い踊る。
 僅かに煌めきを湛えた蝶と共に、宵闇に色彩を与え、ささやかに彼女たちを照らしていた。

「合格よ。貴方は資格を得たわ。白玉楼庭師、魂魄妖夢」


***


 やがてその地は、幻想郷と呼ばれることとなる。
 一定のルールにより、人と妖は境界を分かち、共存する楽園。
 幻想郷は何もかも受け入れる。それは残酷な話だと、妖怪の賢者は言った。
 里を襲う妖怪と人間の戦いも、血生臭さは鳴りを潜め初め、作られた舞台の上に立つ者だけが、その争いに参加することを許されるようになった。
 そしてその舞台から降りた者のひとりに、半妖の男性の姿も在った。
 彼は少女と別れたからもしばらくは人里で暮らしていたが、やがて散歩に出掛けるようにふらりと出て行き、数十年は人前に姿を見せなくなる。


 日々殺し合いが展開される日常は、緩やかに過去へと変わっていく。
 そして、その中に居た者の存在も、同じく忘れ去られていった。


 ――人には語り継がれない、そうした物語は例外ではあった。


***


「無理」

 ぶすぅ、と擬音が付くかのように、不貞腐れて少女は呟いた。
 広大な屋敷。その距離は幅二百由旬あるとも言われる、冥界の屋敷には、恐ろしい数の桜の木が花を咲かせていた。
 その一室で、机に顔を載せる少女の姿が在った。
 薄い青色を基調とした着物に、同じ意匠の帽子を頭に載せ、薄桃色の髪が木の机に掛かる。


 疲れた、と言うよりは飽きたと言った感情を表に出す少女は、何も持たない手をくるくると動かす。
 机の上には、書庫から引っ張り出された幾つもの書が、埋め尽くすように高く積まれている。
 その中の一冊を手に取り、横に傾けた顔の前で頁をめくる少女は、溜息と共に小さく呟いた。

「どうやっても、すぐに使えるようにはならないのよねぇ」

 見出した結論は変わることなく、本を投げ出して少女は席を立った。

「ようきー、片づけておいて」

 部屋の襖を開けて、少女は誰も見当たらない庭に向けて声を掛けた。
 そうしておけばすぐに庭師は片づけに来ることを知り、少女はとある部屋まで移動を始める。

「反魂の術が一番手っとり早いけど、復活してすぐ死んでも使えないし……うーん」

 かつて西行法師は、死体の部品を用いて人間を復活させたことが在ると言う。
 しかしそれは不完全な物であり、彼にとっての反魂法は失敗に終わった。
 また術式を完全になぞらえるには条件が異なり、併せて行っても失敗する可能性の方が高いそれを、少女は選択することは無かった。
 孤独を恐れて死を覆した妖僧と、同じ轍を踏む必要など何処にも無かったのだから。


 ある部屋には、常に敷かれた布団が在る。
 その部屋に辿りつき扉を明ければ、布団に横たわり微動だにしない少女の姿が在った。
 白無垢の帷子を着せられ、丁寧に鋤かれた銀の短髪、眼を閉じたその姿は、動かない人形あるいは死体を見る者に思い起こさせる。
 眠る姿の隣には、少女が予測していなかった客人の姿が在り、彼女は少女を見かけて妖しくほほ笑んだ。

「お邪魔しているわよ、幽々子」

 幽々子と呼ばれた少女は、面白がって遊びに来た友人に柔らかな物腰で言葉を述べる。

「忙しく無いから邪魔では無いわ、紫」

 金の細い線を独特な形で括りつけられた髪型に、大陸調の道士服。
 室内である為か帽子を傍に置いた紫と呼ばれた少女は、指で形を作り眼の前の友人に指し示す。
 延びた指の数が、年数を表していることを、幽々子は理解する。

「と、多分これくらい掛かるんじゃないかしらね。この子が目覚めるのは」

「長いわ~。早く妖忌に楽をさせてあげたいのに~」

「貴方の殺し方が悪かった所為ね。きっと目覚めた時には記憶も何もかも失って、それこそ生まれ変わったようになっているわよ」

くすりと紫は笑う。

「まぁ、刀に着いた妖怪の血を清めるのにも結構時間が掛かるようだし、時期的には丁度合うんじゃない?」

 刀、楼観剣と呼ばれる魂魄家が所持する長刀。
 今は白玉楼庭師の魂魄妖忌が持つ二本の刀のうちの一本であるそれは、以前使用した者により大量の穢れを付着させていた。
 妖怪を斬り続けることに寄り、それに特化した物へと変質を遂げ、斬られた物の怨嗟と血に寄って鍛え上げられた楼観剣は、本来とは違った用途で用いられ続けた。
 それは、振るう者にすら害を与えかねない物へと変わる恐れも生じた為、今は清める為にしばらくの眠りについている。
 その処置は、現在は魂魄妖忌によって一任されている。
 剣聖と呼ばれる域に達した剣士の眼は、本来の状態に戻るのに少なくともあと60年は掛かるだろうと、そう主に宣言した。

「何ともならないのねぇ」

「何とかしたいの?」

 友人のからかうような問いに数泊子の間を於いてから、幽々子は答えた。
 既に飽きっぽい性分の彼女は、興味を失いかけていると言うことを、友人は良く知っていた。

「いいえ。もうちょっと妖忌には、頑張って貰わないとね」

 そう囁いて、幽々子は少女の額に手を当てる。
 人間にしては低い体温に、やや白い肌。
 長い眠りに着く少女の傍には大きな人魂が、寄添うように揺蕩い続けていた。





 こうして、復讐に生きた少女の物語は終焉を迎える。
 半人半霊の少女の物語は、それからまた別の物語である。






 人と幽霊、その境目に立つ少女。






 境界に至る物語を、魂魄妖夢は知らない。


***





  -憩え安らかに、安らかに憩え。







“あなたがわたしにくれたもの”番外編

“ようようゆめみし”