プロローグ





 香港九龍地区の中央に位置する高級アパートメントの上階。
 ベランダからはヴィクトリア湾のパノラマが一望出来る人気物件の一室は今まさに凄惨な拷問の現場と化していた。
 虎の生革を剥いで作られた絨毯には鮮血が付着し、滴っている。ある意味、在りし日の姿を取り戻したといえるだろう。
 玄関のドアは用心棒によって封鎖され、贅の限りを尽くした家財道具は無残に押し倒され、銃弾に撃ち抜かれ、破壊されていた。
 
 部屋の中には煙草を咥えた女性と、手足を拘束され椅子に縛り付けられた中年の男。
 拷問をする側と拷問を受ける側。一切の説明がなくとも、この状況を見れば誰しもがそう思う。
 女性の手には拳銃とナイフ。男の体には無数の傷跡と痣。口には猿轡を噛まされ無用な悲鳴と自害を封じている。
 もっとも、舌を噛み切るぐらいで人間は死なない。痛みに自らを失い喋れなくなるのを防ぐ為の処置だ。
 また、男の口腔内には割れた酒瓶のガラス片を詰め込んである。女性が頭部を殴る度にガラス片が口の中に突き刺さり、地獄のような苦しみを与える。
 如何に屈強で頑健な人間といえど、身体の内側から発せられる痛みには弱いものだ。

 ほんの十分前まで口汚く女性を罵っていた男も、縛られたまま今ではぐったりと頭を垂れ、猿轡からは苦悶の声が漏れている。
 何時も大声で下っ端達を叱りつける歓楽街の大物としての威風はもはや何処にもない。肉体的に、精神的に傷めつけられたこの男はもはや真っ直ぐに女性を見つめる事すら叶わない。
 顔立ちは何処か幼さを残して入るが、表情は一貫して無表情で、慈悲や情けといった類の感情は微塵も感じられない。
 一方の女性はというと、別段男へ行った拷問の件を気に病む様子はなく、喜びも悲しみも存在しない全くの無表情で煙草を吹かしていた。
 足元には銀色のアタッシュケース。上半身にはマガジンポーチが鈴なりになったタクティカルベスト、下半身は太ももにまでスリットの入った改造ジーンズ。
 
 つかの間の小休止。一本の煙草が燃え尽きるまでの間が男に与えられた僅かばかりの安静だ。
 しかしそれも間もなく終わりを告げようとしている。短くなった煙草の切っ先を男の首筋に押し付けて消化。猿轡から漏れる苦悶を無視し、女性は男に語りかけた。

「さて、一服も終わったところで、アンタも心の整理が済んだでしょ。喋って貰おうかしら」

 女性はナイフを使い、男が咥えた猿轡を断ち切る。血混じりの唾液が染み込んだ猿轡が床に落ち、咳き込みながらガラス片を吐き出した。
 虎皮の絨毯がまた汚れる。女性の最後通告に男は顔を上げ、憎悪と恐怖がないまぜになった眼差しで睨んだ。

「お前らをハメたのは上の命令だ。娼館の元締めである俺には関係ねぇ……何度も言っただろ。俺は今回の件に何も関わってない」

「知ってるし分かってる。アンタにはそんな事をする度胸はない。必要もないわ」

「だったら何で俺なんだ。俺だけじゃない。女房や娘にまで手を出しやがった。その上喋れだと? 何を喋れって言うんだ。お前の殺した男の数か?」

 男の言う通り、一緒にリビングで昼食をとっていた妻は殺して寝室のクローゼットに詰めた。
 子供は女の仲間が取り押さえて交渉の『材料』として連れ去った。それが三十五分前。まだこの部屋に秩序があった頃の話だ。

「死んだ人間の数に興味はない。そんなものこの街では誰も覚えていないはずだ。私が聞きたいのは金の在り処と、腕のいい運び屋について」

「金と運び屋だと……お前、まだ逃げられるつもりで居るのか」

「無論。その為に態々一家団欒のランチタイムにこうして私が尋ねた訳よ。アンタ娼館の経営以外にも薬と武器の流通も任されてたはずよね?」

「部分的にはな」

「それからアンタの店で使う商品の管理もしている。主に日本の方から女を買って、運び屋にここまで連れて来させるのもアンタの仕事だったはず」

「そうだ。意外と覚えてるもんだな……忘れられないってか?」
 
「私はこの街にアンタの管理する運び屋の船で連れてこられた。忘れもしない、十年前の事だった。それで、今度はその逆をアンタに手配して欲しいの」

「国に帰るってか。馬鹿馬鹿しい、あの国はこことは随分と勝手が違う。お前さんみたいな女に居場所はねぇよ。ファム・ファタール」

「運命の女って意味だったか。そこまでロマンティックな出会いをアンタとした覚えはないけど」

「悪女って意味もあるぜ。組織に買われた女凶手。自分を抱いた男を夜明けまでに殺す毒婦が悪女でなくて何だって言うんだ?」

「生きる為に殺した。反省はしていない」

「だろうな」

「寄って集って私を毒婦に変えたのはアンタ達よ。とはいえ、態々恨み節を言う為にアンタ達家族を襲った訳でもないけど。
 ここを襲ったのはそうね。アンタは顔が広くて金持ちだからよ。その人脈と財産を少しばかり私達に貸して欲しいの」

「奪うの間違いだろうが。クソ、問答無用で女房の眉間に銃弾をブチ込みやがって。おまけに子供まで攫った奴に金と人脈を貸せだ? 通るかよ、そんな要求」

「要求ではなく命令。散々私にして来たでしょ? 今は命令する側とされる側が逆になっただけ、分かりやすいじゃない」

「お前を買い取った時にこうなると分かっていれば娼館から引き抜いて凶手になんて育てなかった。見誤った俺の失態だ」

「後悔は何の役に立たないものだ。昔からよく言う。さて、じゃあまずは金の方を出してもらおうかしら。その下っ腹みたいに随分と財産を肥やしてるみたいだけど。その金は何処に?」

「教えるか毒婦が」

 こんな状況になってもなお、口汚く自分を罵る男に向かって女は手にしたナイフ刃をゆっくりと腋の下へ刺し通す。
 皮膚と肉を貫いて、服の上から刃が中頃まで食い込んだ。痛みにもがく悲鳴が女の鼓膜を刺激する。

「もう一度。金は何処?」

「あの……世で……探せ、人殺しのアバズレが!」

 今度は根本までナイフを腋の下へ刺し通した。柔らかい肉はさしたる抵抗もなく刃の侵入を許す。
 滴る血が柄を伝って絨毯へと。何度目になるか分からない悲鳴。だが女はあくまで無表情に、冷淡に男の苦痛を見届けていた。
 男の苦痛は本物だが、女には分かる。この程度で人間は死なない事を。女は暗殺者、殺しと死体の専門家だ。
 人体の急所について余す事なく知り尽くし、人間がどう傷つけば死に至るのかを知る反面、どの程度では死なないかを理解していた。
 優れた暗殺者というものは優れた拷問者としての素養がある。命を奪わずに嬲る為にはまず命が失われる原理を理解する必要があるからだ。

 腋下の肉を貫いた刃は生命維持に必要な臓器を傷つける事なく筋肉と神経を傷つけ激しい痛みを生じさせる。
 当然、腕の動きは封じられ手当をしなければ障害が一生ついて回る可能性もある。
 命を奪わない程度の範疇で最大限の苦痛を与え、身体の機能を一つずつ奪う。
 痛みと徐々に運動機能を奪われてゆく身体に何れは精神が屈服し、自然と身体が頭を垂れ、口は貴重な情報を吐き出す。
 快楽や怒りと違い、苦痛は常に新鮮で正確に肉体へ機能する。苦痛に飽きる事などない。人間が生命体である以上、苦痛は普遍的なものだ。
 一時的に堪える事は出来ても、親しい隣人のように愛する事は出来ない。

「何処?」

「俺らが……何時も使う埠頭を外れた場所に……貸し倉庫が並んでいる場所がある……目印は赤い屋根で、深水食品運輸社の名前が書いてある」

「勿論それって偽造用に設立したペーパーカンパニーなんでしょうけど」

「そうだ、書類上はブロッコリーの貯蔵場所になっている……裏は資金洗浄もままならない汚れた金や買取待ちのブツ、税金逃れの為に隠された財産が転がってる」

「汚れていようが金は金。使うと組織に不利益があるのは知っているけど、だからといって私には関係ない事だ」

 そう言うと女性は懐から無線機を取り出し仲間へと情報を共有した。
 男の娘を攫った部下は時期が来るまでその場で待機。もう一人の部下には金の回収を命令する。
 一通りの連絡と命令が終わった後、女は懐から煙草を取り出し、切っ先に火を灯した。
 天井に紫煙が上る姿を眺めつつ、女は次の質問を男に投げかける。

「じゃあ次は私達を逃がす為の運び屋について」

「運び屋とのパイプならお前も持ってるだろうが。態々俺に聞く必要はないはずだ」

「私と繋がりのある運び屋連中は組織の子飼いばかり。信頼は出来ない」

「俺みたいに銃で脅して家族を殺すなり人質に取ればいいだろう……」

「脅して任せる仕事程信頼の出来ないものはない。私達には組織の手が回っていなくて、脅しではなく報酬で動く健全な運び屋が欲しいの。
 日々新しい輸送ルートの確保に忙しいアンタならそういった連中を知ってるはずでしょ?」

「居ない事もない。だが組織の子飼いでなくとも、リスクを考えれば誰もお前達を運んでやろうとは思わんさ」

「その上で私達を運んでくれる足を探すのがアンタの役割でしょ?」

「クソ……分かった、分かったからもうやめてくれ。知ってる、一人だけお前達を運んでくれそうな運び屋を知っている」

「ふん、何処の運び屋?」

「うちの組織が運営する飲み屋で知り合った。女の運び屋で、合法から非合法までなんでも請け負う。表向きは骨董品を取り扱う貿易商だ。
 ボーダーレスに何処までも、とそいつは言ってた。胡散臭い女だったよ。一応、会社の国籍は日本だ」

「そいつと仕事はしたの?」
 
「一度だけ。盗品のアンティークを日本まで運ばせた。高くついたがいい仕事はしてくれたよ。腕は確かだ。
 会社の名前はラフカディオ貿易会社。今は別の仕事で香港に来ている。三日前に商売の話をしたから、まだ香港を出ていないはずだ」

「話をつけろ。連絡先ぐらい知ってるだろう」

 備え付けの黒電話を引っ張り、本体を男の膝上に置く。
 すっかり従順になった男が運び屋の連絡先を喋り、言う通りに女はダイヤルを回した。
 受話器を男の右耳に当て、眉間には銃口を突きつける。余計な事は喋るなという無言の命令だ。

 呼び出し音が三度鳴り、相手が受話器を取る音と共に途切れた。

「アンタか。俺だよ、この前の仕事はどうも。いや、報酬以上の働きだったぜ。上も大満足だよ」

 全身に刻まれた傷と腋に刺さったナイフの痛みを覆い隠して、男は軽妙な口調で運び屋と話を始める。
 いわゆる娼館の元締めという如何にもな小悪党だが、この男自身に何かしらの特別なコネクションがあって今のポジションに就いている訳ではない。
 ただの使いっ走りから、組織が運営する娼館の元締めまで上り詰めた叩き上げだ。今日に至るまで幾つもの修羅場を潜り抜けてきた。
 
 思い返してみるとこの男とは長い付き合いになる。初めて日本から香港へ連れてこられた時、自分の面倒を見てくれたのはこの男だった。
 面倒を見ると言っても衣食住の提供をするだけで、後は娼館で働く知識を教えてくれただけだ。
 親代わりと呼ぶには程遠い。この男はただ自分の商品の世話をしていただけだった。
 それでも、生きていく手段と知識を与えてくれたこの男にはいくらか感謝はしている。

 使いっ走りから出世した人物であったから、下の者からもよく慕われていた。
 娼館で働く娼婦には商品としての敬意を払っていたし、稼ぎが少ないからといって娼婦に暴力を振るう事もなかった。
 他の組織と抗争がある度に自ら武器を手に戦闘を行い、銃声と怒声で敵を追い払う。
 そういった事もあり、女が娼婦から組織お抱えの暗殺者になった後も何度か共に仕事を請け負い、少なからず個人的な繋がりもあった。
 だがそれだけだ。世間一般では友人関係と形容するのだろうが、女にとっては違う。

 女の至上目的は自らが生き延びる事。命を繋ぐ為ならば何だってする。
 売春婦として身体を売り、暗殺者として人を殺し、今度は裏切り者として組織を敵に回す。
 男の妻を殺し、娘を誘拐したのも自分が生きる道を切り開く為だ。何も特別な事ではない。女は昔からそうやって生きてきた。
 
 端金で大陸へ売り渡された時から女の運命は決まっていたようなものだ。
 生きてゆくには対価が必要になる。自らが働く事で明日を生きる権利を勝ち取らなくてはならない。
 そんな風に考えていたから、素養を見ぬかれ、少女売春婦から殺し屋になった時も別段なんの感想もなかった。
 明日からは人を殺すのが仕事なのかと、自分の職業について漠然と考えただけである。
 これから自分が生きてゆく上で殺す者達に思考を巡らせても意味は無い。同情は無価値で無意味だ。
 哀れんで殺したところで与えられる死に変わりはない。
 何より殺される方は相手がどのような感情で自分を殺そうが知った事ではない筈だ。
 
 どのような理由があっても自分の行為が意味する本質は変わらない。
 ならば最初から気にしなければ何も問題はない。
 それでも戦士には誇りが必要だと反論する輩が居るのなら、女はこう答えるだろう。

 私は戦士ではない。殺しに誇りや矜持を持ち出す狂人と一緒にするな、と。

「今から急ぎで頼む。ブツの回収場所は倉庫街だ。場所はこの前と変わらず、報酬は回収したブツから直接受け取ってくれ。
 ああ、そうだ。全額前金だ。今回は人を運んでもらう、問題無いだろ? そういう事だ、こっちも色々ある。頼んだぞ」

 最期に念を押し、男は交渉を終えた。受話器を置き、眉間から銃口を逸らす。
 安堵の溜息をつき、女は取り出した煙草を咥え切っ先に火を灯した。

「これでいいだろう。もうこれで俺に要はない筈だ。裏切り者の手助けをしちまった。俺も組織に消される……」

「その心配は必要ない。然るべき処理を考えてある」

 窓から九龍地区の街並みを見渡す。道路を行き交う車、バイク、屹立した高層ビル群。
 その内の幾つかは娯楽商業施設であり、女が所属する――所属していた組織の運営するものだ。
 女は懐から双眼鏡を取り出し、ビル群の中でも一際背の高いシティホテルのエントランスを覗きこんだ。
 紅いドレス姿の少女が一人、ホテルのエントランスを歩いてゆくのが見える。
 子供にはやや大きいキャリーケース。だがエントランスに居る人間は誰も気に留めない。
 エントランスで両親とはぐれた子供が歩き回っている、そんな風に見えるのだろう。

 もっとも肝心の両親は母親が頭を撃ち抜かれ即死。
 父親は椅子に縛り付けられ、裏切り者の片棒を担がされているという救い難い状況にある。
 無論少女は自らの父と母が置かれた状況を理解していた。何せつい先程まで一家団欒の昼食を笑顔でとっていたのだから。
 女は仲間に命じて男の娘を誘拐、その際に衣服を着替えさせ、こちらの用意したキャリーケースを持たせた。
 時を同じくして懐の無線機が鳴り響く。片手で双眼鏡を保持したまま女は無線に応答した。

「隊長、子供を向かわせました」

 抑揚を欠いた男の声がノイズ混じりに聞こえる。
 同類の声だ。女と同じように命を刈り取る事に長け、自らの命を永らえさせる為だけに他人を殺せるような輩の声。
 昨夜の襲撃から生き延びた数少ない仕事仲間の一人だ。
 昨夜の一件で自身の右腕を失ったばかりだというのに、声色に不安や戸惑う気持ちは微塵も感じられない。

「少し派手だな。まあ、他所行きの洋服に身を包んだ良家の娘に見えなくもないか」

「目標の顔は叩き込みました。子供には荷物を写真の男に渡すように命令してあります」

「荷物の受け渡しが完了したら私も出る。集合場所は埠頭の倉庫街にある深水食品運輸社名義の倉庫だ」

「了解」

 通信を終え、男と向き直る。腋にナイフを刺された男は弱々しく顔を上げ女を睨みつけていた。

「部下と尻尾を巻いて逃げる相談か。どうせ無理な話だってのに、よくもまあ足掻く」

「足掻ける内は足掻く。噛みつける内は噛みつく。生き延びられる内は生き続ける。
 死んだ場合の事は考えない。私は生きる為に殺すし、生きる為なら何でも利用し切り捨てる」

「挙句の果てには組織までも切り捨てるってか? 無理だな。どうやっても無理だ。一度楯突いたら最期、地の果てまで追ってくる。
 今日この日を生き延びたとしても明日はどうだ? その次は? その次の次は? 何時までも背後から迫る死の恐怖に怯えるだけだぞ」

「そんなもの、普通に生きているのと何が変わらないの?」

「違いが分からないようじゃあお前さんの先も長くはねぇな」

「アンタもね」

 突然爆発音が九龍区の市街に轟いた。衝撃波でビルのガラスが割れ、混乱で何台かの車が衝突する音が聞こえる。
 音のした方向は先程女が覗き込んでいたホテルのエントランス。男の子供が無事に荷物を幹部連中に渡したらしい。
 セムテックスを仕込んだキャリーケースが至近距離で炸裂して生きていられる人間など存在しない。
 ポケベルを起爆装置代わりに使う簡易な爆弾だったが、威力は折り紙つきだ。今頃あのエントランスは地獄と化しているだろう。

 口に咥えた煙草を捨て、銃口を男の額に当てる。
 突然の爆発と女の行動を脳内で結びつけるのに些か時間の掛かった男は、気づいた瞬間に痛みも忘れて憤怒の形相で怒鳴った。

「この……売女がぁ! テメェ! くそッ! 娘を、俺の娘を使いやがったな!」

「子供は怪しまれないからな。怪しい動きをしても道に迷ったの一言で済む。それに、然るべき処理を考えてあると言っただろう」

「許さねぇ! 絶対に! 絶対にお前のような畜生を許さねぇ! 腹を裂いて臓物を食い散らかしてもまだ足りない! テメェは! テメェは!」

「黙れよ小悪党」

 吠える男の口に銃口を捩じ込む。幼き頃、男達に無理やり犯された場面を再現するようにその手つきは乱暴極まるものだった。
 
「子供を殺し屋に仕立て上げるやり方は元々あんたらのお家芸でしょ? うだうだと文句を垂れる筋合いはないはずだ」

 銃口を奥へ、奥へと押しこむ。
 涎を垂らしながら苦しむ男の事など気にする事もなく、冷たい銃口は更に奥へと挿入された。

「口の中を犯されるのは初めてか? 私は何度もあったぞ。お前達がそう命じたからな。それも今日で終わりだ。さよなら、私がこの街で初めて世話になった男」

 ただ一度引き金を引き、それで男の全てが終わった。
 積み重ねた悪行も、富も、掃き溜めの中で築き上げた温かい家庭も、全ては一人の女の手で終わってしまった。
 乾いた銃声が響き、男の体は生者から死者へと、肉の塊へと変化する。
 
 唾液と血で汚れた銃身を男のシャツで拭い、腋に刺さったナイフを抜き鞘へと収める。
 アタッシュケース片手に、女は血塗れのアパートメントを後にした。
 男の人生は終わったが女の逃避行はまだ終わっていない。
 相手は数万の構成員を抱える巨大組織、対する女達は負傷者含めたった三名の暗殺者だけ。
 逃げ延びられる確率は万に一つあるかないか。だがそれがどうしたというのだろうか。

 やる事は全てやる。ただ自分の為だけに何もかもを犠牲にする心得はとっくの昔に持ち合わせている。
 その為に他人が百人死のうが千人死のうが一億人死のうが知った事か。
 自分が明日を生きる為ならば、何が犠牲になろうと構わない。今までずっとそうやって生きてきた。
 生存権は与えられるものではない。自ら勝ち取り、掴むものだ。









 地上の喧騒から隔離されたアパートメントの地下駐車場に女の姿はあった。
 ホテルのエントランス爆破から五分。ホテル周辺には警察車両が殺到し、組織の構成員でさえ出入りできない状態にあるはずだ。
 あのホテルでは今日、組織の幹部を集めた会合が行われていた。長年敵対関係にあった別組織との和睦に当たっての内部会議。
 会議の場には無論、女が属する組織お抱えの暗殺部隊についての議題もあった。
 
 ただ言ってしまえば、今回の会議で論じられた暗殺部隊に対しての議論は処遇についてではなく処理についてだ。
 敵対組織との和睦にあたって、両者は利益の山分け、相互不可侵等と並行して、
 これまで互いの組織に対して不利益を被らせた者達への処理を画策したのだ。

 対象は主に組織の幹部を多く殺した凶手、つまりは殺し屋達だ。
 両組織が今後円滑に手を取り合う為、無用な諍いを巻き起こしかねない凶手達を始末しておくという建前で、
 本音としては互いの戦力を削ぎつつ、相手から信頼されたいというところだろう。

 相手組織との和睦を聞いた時から女も薄々と予感はしていたが、まさか部隊で行動している際に正面から襲撃を受けるとは思わなかった。
 昨夜、組織に対して面白くない動きを見せ始めた皇家香港警察の刑事一家を始末した時の事だ。
 刑事一家の暗殺自体は上手くいった。女が率いた六名の暗殺部隊は何れも卓越した銃火器の使い手であり、隠密行動に長けた者達ばかりだ。
 隣近所の安眠を妨害する事なく、刑事とその家族を始末し、死体を袋に詰め込んで現場を後にしようとした際、異変が起こった。

 見張り役として表を警戒させていた二名の隊員から連絡が途絶し、何者かが屋内へと侵入した。
 即座に応戦を開始し、襲撃者と接触。そのまま室内での戦闘へと発展した。
 敵は八名。その殆どが銃火器ではなく、剣や槍、棍といった近接武器で武装した武芸者であった。
 闇の中を縫うように動きまわる武芸者達に苦戦しつつも三名を殺害し、現場から逃走した。

 その際、一人は頭を潰され即死。もう一人は右腕を失った。
 散り散りになって逃走を開始した暗殺部隊の面々は夜明けまでに情報を収集。
 差し向けられる組織からの追っ手や、組織関係者からの証言を元に自分達が組織から斬り捨てられた事を察したのだ。
 
 また自分達を襲った武芸者集団の名前も判明した。
 奴らの名前は『九龍闘士部隊』。組織の中でも武芸に優れた者達を選りすぐり設立された直接戦闘の専門家達だ。
 噂として何度か小耳に挟んだ事はある。実際に眼にしたのは初めての事だ。無論、相手にするのも初めてだ。
 
 ともあれ女は現在追われる身だ。警察は元より、同じ組織の連中からも血眼になって探されている。
 埠頭の倉庫街で集合と伝えたが、埠頭に移動するまで組織の連中に捕捉されないという保証は何処にもない。
 恐らく地下駐車場を出た時点で捕捉されるか待ち伏せされていると見る方が無難だろう。

 女は駐車してある愛車――真紅の日本製バイクにキーを挿し、キックスターターを蹴ってエンジンを始動した。
 低いエンジンのアイドリング音を感じながら、女は手にしたアタッシュケースを開き、中に入った物を手にする。
 細いハンドガードにピストルグリップ。弾倉は銃本体の下部に差し込むのではなく、筒状のヘリカルマガジンを銃本体の上に装着する。
 コンパクトな外見とは裏腹に22LR弾を百発装弾可能となっている。弾倉は予備も含め三つ。即ち三百発分だ。
 
 一つ目の弾倉を差し込み、ボルトを引く。残った二つの弾倉はマガジンポーチへ収納。
 装填の終わった銃を燃料タンク横に増設した武装ラックへ収納。アタッシュケースは駐車場に放り投げ、そのまま発進した。
 駐車されている車の間を縫うように走り、地上へ出る。ちらりと脇目にホテルの方面を確認すると、消防車両や警察車両のランプが点滅する様子が見えた。
 構わず速度を上げ、市街地を直進する。赤信号の交差点を減速する事なく突っ切り、加速。
 通常速度で走る車両を避けながら止まる事なく走り続けた。時折罵倒混じりにクラクションが鳴り響いたが形振り構っている暇はない。
 すぐ後ろに黒いバンが二台、女のバイクに追従するようにして迫っているからだ。
 
 時折一般車両にぶつかり、押しのけ、女との距離をだんだんと縮めてくる。
 アパートメント近くで張り込んでいた追っ手に捕捉された。恐らく二台で女を挟撃し蜂の巣にする算段だろう。
 だがそう安々と殺されてやる道理はない。

 アクセルを握りこみ、エキゾーストノートと共に女のバイクは加速した。
 大通りを外れ、商店が立ち並ぶ裏通りへと曲がる。
 逃すまいと二台の黒いバンは強引に裏通りへとその巨体を押し込んだ。
 野菜を売っていた露天に衝突し、商品の野菜と木で出来た店舗をなぎ倒し女へと迫る。
 
 一台のバイクと二台のバンが乱入した裏通りでは人々が逃げ惑い、露天は商品ごと無残に壊されていく。
 香港映画の世界だなと独り言ち、女は武装ラックから銃を引き抜き背後へと発砲した。
 22LR弾は小型で小口径だが、車のフロントガラスを粉砕するだけの威力は持っている。
 無論人間を傷つけ殺傷するには十分な威力だ。運転手を撃ちぬかれたバンはコントロールを失い、アンティークショップのショウウィンドウへと突っ込んだ。
 煽りを食らって後続のバンがリアへと追突する。

 サイドミラーで一連の様子を確認した女はノンストップで裏通りを駆け抜け、再び表へと躍り出た。
 一度見つかってしまった以上、ああいった手合いは無尽蔵に湧いてくる。
 弾薬がある限りは応戦可能だが、無闇に相手取るよりは早く運び屋のもとに向かう方が懸命だろう。

 そう考え、銃を武装ラックへ戻そうとした瞬間、背後からけたたましいエキゾーストノートの音が迫るのを知覚した。
 速度を落とさずサイドミラーで確認する。女と同じように一般車両の間を縫うようにして加速する黒いバイク。
 スモーク入りのヘルメットを被り、左手には梢子棍と呼ばれる武器が握られていた。

 また厄介な相手に捕捉されたものだと女は舌打ちする。
 このタイミングかつあの得物。間違いない九龍闘士部隊の一員だ。
 生き残った部下から梢子棍を持った相手が居たとは聞いている。

 梢子棍とは長さの異なる二つの棒を鎖で繋げた多節棍の一種だ。
 形状としては琉球古武術に用いられるヌンチャクによく似ている。
 だがヌンチャクとは違い、基本的には片手で扱う武器だ。
 また持ち手の方が長く作られており、変則的な打撃攻撃も行える。
 攻防一体が勿論、搦手にまで対応した厄介な相手といえるだろう。

 すかさず女は背後へと銃を向け引き金を引く。連なった発砲音が響き、銃弾が闘士へと殺到した。
 闘士は走行中の一般車両の影に隠れ、銃弾をやり過ごす。巻き込まれた一般車両は車体に穴を開け、ガラスを砕かれながら失速しクラッシュ。
 一般車両を弾除けにしながら闘士は女との距離をじわりじわりと詰めてくる。
 やりにくい。幾ら相手が隠れる物陰を奪おうとも、隠れる為の車両はそこら中に掃いて捨てる程存在している。
 弾は減り、相手はこちらに接近する一方だ。芳しい状況とはいえない。

 空になったマガジンを取り外し、新しいマガジンを叩きこむ。残りは二百発。一人の敵相手に何時までも浪費している暇はない。
 アクセルを捻り、急加速。団子状態になった車両の間を抜け、速度を稼ぐ。
 尚も背後から追い縋る闘士の黒いバイク。左手に持った梢子棍が威圧的に空を切り、スモーク越しの視線は女を捕捉し続けていた。
 
 追う者と追われる者の関係はそのままに、両者はヴィクトリア湾沿いの連絡橋へと突入する。
 高速の追走劇の中で生まれた拮抗状態。女は忌々しげに舌打ちをすると加速を止め、闘士との距離を保ちながら周囲を見渡す。
 行き交う雑多な一般車両。小型ハッチバック、高級サルーン、大型トラック――英国生まれの二階建てバス。
 アングロサクソン人の植民地ではよく見かける、一般的な公共交通機関。

 こいつは使えそうだ。ここぞとばかりに距離を詰める闘士を尻目に、女は銃口を二階建てバスの運転席に向ける。
 バスの運転手は一瞬遅れて自らに銃口が向けられていると気付き、ハンドルを切って回避を試みたが女が引き金を引く方が早かった。
 殺到した22LR弾に窓ガラスごと貫かれ、ハンドルを握ったまま絶命する。
 制御を失った二階建てバスはたちまち他の車線を走行する車両を巻き込み、暴走をはじめる。

 バスにトレーラートラックが追突し、バス諸共横転。鉄の塊であるコンテナが道路を塞ぎ、一般車が巻き込まれる形で次々と追突した。
 女は追突に巻き込まれないようにバイクを駆り、安全圏へと離脱した後停車して事故現場を一瞥した。
 鉄塊と化した車から黒煙が上がる。燃料タンクから漏れたガソリンの匂いが鼻を突く。
 
 自らも回避行動に必死だったが、ミラーを介して追跡者の状況は把握していた。
 バランスを崩したトレーラーのコンテナが覆い被さり、その後は追突する車の中に埋もれていた。生きてはいまい。
 積み重なった鉄塊の山に銃を向け動くものが存在しないか確認した後、女は銃を武装ラックに収め、懐から筒状の物体を取り出した。
 筒状の物体に付属したレバーを握り、ピンを抜く。鉄塊の山へ向けてスローイング。投げ込まれた筒は漏れでたガソリンで濡れた地面を転がり、鉄塊の下へと潜り込んだ。

 それだけ見届けると女は再びバイクを発進させ、混沌とした車道を縫うようにして走った。
 背後で爆発が巻き起こる。黄燐手榴弾によって漏れ出て気化したガソリンを強制的に燃焼させた。
 九龍闘士部隊のしぶとさは昨夜の戦闘で嫌という程思い知らされている。徹底的にやらねば万全とは言えないだろう。

 警官隊と消防隊の姿は見えない。まだホテルエントランス爆破の件につきっきりとみえる。
 闘士部隊の追っ手は今しがた始末した。警官隊から追跡の手が回るには時間が掛かる。
 更に横転し炎上した車両によって橋は通行止め。まずまずの成果だといえるだろう。

 埠頭の倉庫街を目指して女は駆け抜ける。彼女が生き延びる為に一体どれだけの命が傷つけられ、失われただろうか。
 そして彼女は失われていった命に対して何一つ悔いる事なければ、自らを責め立てる事もない。
 あの世なんてものが実在するとして、送られる場所が地獄なのはとうの昔に分かりきっている。
 どうせ地獄に堕ちるなら生き延びるだけ生き延び、足掻くだけ足掻いてから死ねばいい。

 後悔など、懺悔など、贖罪など、死んでからでも遅くはない。
 社会の吹き溜まりのような場所に産み落とされた彼女にとって、自己の生存以外に優先すべき事など何一つとして存在していないのだ。
 殺さなければ殺される。だから殺してきた。死体を積み重ね、生きたいという願いを踏み躙ってきた。

 女にとって、生きる事とはつまりそういう事だ。









 市街地での混沌や騒乱といったものは既に遠く、今女の目の前にあるのは無機質で巨大な倉庫の列。
 そして通路には視界を遮るコンテナが幾つも積まれている。人影はない。
 幸運にもあの後組織からの追っ手に見つかる事なく埠頭の倉庫街まで辿り着いた。

 目的の倉庫前でバイクを停め、エンジンを停止させる。
 銃を手に、周囲を警戒しつつ深水食品運輸社名義で借りられた倉庫の中へと入った。
 作業員用入り口のドアノブを捻る。軽い手応え、鍵はかかっていない。
 他の二人が先に来ているのだろうか。身を屈め、倉庫の通路を音もなく女は進んだ。

 倉庫の中は外と同じようにコンテナが積まれており、
 その中には資金洗浄前の金や薬物、盗品、密輸品等が詰め込まれている。
 運び屋と合流する前に仲間と手分けして金の入ったコンテナを探さなくてはならない。
 
 コンテナの影から僅かに顔を出して仲間の姿を探す。
 しかし、仲間の姿は何処にもない。静寂と埠頭へ押し寄せる波の残響だけがただ響いていた。
 
 不意に、頭上で何かが動く。女は反射的に銃口を向け、身構えた。
 コンテナに着地した黒い影。黒いスーツ姿の男――九龍闘士部隊の一人。
 この瞬間、女は全てを察した。先回りされていた事、他の仲間は既に殺されている事、自らの置かれた絶望的な状況。
 だが怯まず臆さず、握った銃で狙いを定め引き金を引く。闘士は後ろへ跳び、着弾前にコンテナの影に着地した。
 あの闘士は得物を所持していなかった、拳闘士だろう。
 
 立ち上がり、駆け出す。狭く遮蔽物の多い場所では銃の射程を生かせない。
 もっと広い空間で迎え撃つ必要がある。開けっ放しになった入り口へ走るが、またしても黒い影が現れ女の行く手を遮った。
 先程の男と同じく、黒いスーツ姿。だが得物が違う。手には刀――中国式日本刀『苗刀』。
 立ち止まらずに、女は前方へ発砲。苗刀の闘士は壁に向かって走りだし、そのまま重力に逆らって数歩、壁を駆け上がった。
 宙空でくるりと体勢を変え、音もなく刀を抜く。上から下へ、今度は重力に従って落下。体重を乗せた刃が女へと襲い掛かる。

 女は目を見開いたまま、ありったけの脚力を使い背後へと跳んだ。
 同時に一閃。上から下へ刃が打ち下ろされる。手にした銃が両断され、地面へ落ちる。
 使い物にならなくなった銃を投げ捨て、女は一歩踏み込んだ。腰の拳銃は抜かず、全くの無手である。
 
 呼吸を止め、拳を握る。身体に働く力の動きを制御し、己の拳ただ一点へ集中させた。
 一瞬の加速によって得られた力に体重と筋力を上乗せし、衝突の際に力を相手の体内で爆発させる。
 最短最小の距離と加速によって最大限の破壊力を得る中国武術の技――発勁だ。

 苗刀の闘士が顔を上げ、受け身を取る。左腕を使って頭部を守った。
 構わずに女は拳を振り抜いた。直撃。集約した力が打撃の際に闘士の右腕で炸裂し、衝撃で後ろへ転がる。
 骨を砕いた確かな感触を得ながら、女は腰のホルスターに吊った拳銃を抜き背後へ向ける。
 
 コンテナの影から姿を表わす無手の黒服。加えて更に二人、槍を持った黒服と回転式拳銃を手にした黒服が新たに姿を表した。
 先程左腕を折り、吹き飛ばした苗刀の闘士は既に姿勢を正し、損傷から復帰し始めている。

 前方に三名。退路には一名。合計四名の敵。対するこちらはただ一人のみ。
 武器は拳銃と手榴弾が一つ。撹乱用の発煙弾が一つだけだ。数的不利は明らか。
 加えて相手は近接戦闘では女の戦闘力を上回る。
 先程苗刀の闘士に拳を撃ち込めたのは一対一かつ、相手の不意を突いたからだ。同じ手は二度と通用しないだろう。

 常識的な判断を下すなら、女の勝機は薄い。
 物陰が多く、狭い倉庫では銃の利点も相殺される。接近を許せば数で押し込まれる。
 抵抗はするだけ無意味だ。大人しく武器を捨てれば楽な死に方ぐらいは選ばせてくれるかもしれない。
 抗えば抗うだけ、女を待つ運命はより過酷なものとなるだけだ。

 息を吐き、肩の力を抜く。八方塞がりの状況において諦めるのも一つの賢さだと結論づけ、女は懐に隠し持った発煙弾のピンを抜いた。
 倉庫の床に転がすと同時に白い煙が立ち上り、女の姿を煙の中に隠した。交戦の意思を察した闘士達は一斉に動き出す。

 賢い判断だからどうだというのだろうか。死ぬ為の知恵など女は求めていない。
 そして最終的に死ぬのなら死に至るまでの苦楽など意味は無いはずだ。
 同一の結果に至る二つの過程があるのなら、女は最期まで自分の意志で戦う道を選ぶ。

 鞘からナイフを抜き、正面へと突進を行った。煙の中から抜け出し、敵を捉える。
 無手の闘士はコンテナの上に、槍の闘士はコンテナの影に隠れていた。
 銃口をコンテナの上に向け、発砲。銃声が四度響き、コンテナの表面を叩く。

 銃撃の切れ目に無手の男は飛び出し、女へと襲い掛かった。
 両腕を折り曲げ、蟷螂のように構えた体勢。蟷螂拳の構えだ。
 蟷螂を真似た素早い攻防と体の伸縮を利用した、徒手空拳にあるまじき広さを誇る間合い。

 落下しながら、闘士は身体の筋肉をバネに拳を繰り出す。
 体を反らして初撃を躱しながら、ナイフで切り込んだ。
 苦もなく闘士は上半身の動きのみでナイフを躱してみせ、女の腕を絡めとる。
 絞め上げられ、武器を奪われる前に銃口を頭部へと向ける。
 一瞬の判断、高度な攻防が刹那の間に行われ、殺気が交差する。

 闘士が女の腕を離し、軽い打撃を放った後、距離を取った。
 コンテナの影に隠れていた槍使いの闘士と、立ち込める煙を切り裂いて苗刀使いが姿を現す。
 各個撃破を避ける為に一人が深追いをせず、一撃を加えた後離脱する作戦だろう。

 穂先を向け女へと直進する槍使いの闘士へ銃口を向けながら、刃の切っ先を後退する無手の闘士へ向けた。
 逃しはしない。喉元へ狙いを定め、ナイフのグリップに付属したレバーを押しこむ。
 柄に内蔵されたスプリングが弾け、銀の刃が一直線に闘士の喉元へ飛来した。そのまま深々と柔らかい喉元へと突き刺さる。

 驚愕に見開いた眼のまま、無手の闘士は脱力し、床に転がった。
 正面からの不意打ちだ。刃を強力なスプリングによって射出するバリスティックナイフの一撃。 

 刃を失った柄を投げ捨て、向かってくる槍の闘士へ発砲。四発の銃弾が胴体へ命中したが、怯む様子はない。
 防弾ベストだ。懸念はしていたが、やはり銃に対する対策は施されている。
 筋肉の塊で出来ているような連中だ。弾頭を防弾ベストで止め、衝撃は鍛えられた筋肉が止める。
 舌打ちしつつ、女は距離を取る為走りだした。正面はコンテナの間に生じた道がある。

 闘士の死体を乗り越えて走り、入り組んだ倉庫の中を右へ左へ駆け抜けた。
 後を追う二つの足音。マガジンの中に残された弾薬は四発。
 予備のマガジンは持っているが、悠長にリロードを行なっている時間はない。
 残り四発で全員始末するのが理想的といえる。

 次のコンテナを右に曲がる。曲がった先には黒服の男。手にした得物は古めかしい回転式拳銃。
 マカロニウエスタンに登場するシェリフのように、拳銃の闘士は右手だけで器用に拳銃を回した。
 随分と余裕のある態度だ。構わず、銃口を向け頭部へ狙いを定めた。

 女が構えると同時に、闘士も銃を構える。
 腰だめに拳銃を構えたクイックドロウの体勢。何処までも西部劇じみた男だ。
 ――刹那の睨み合いから、両者が引き金を引く。同時に響く二つの発砲音。

 闘士は防弾ベストに覆われていない首筋を撃ち抜かれ、おびただしい量の流血と共に片膝を突いた。
 一方の女は足を――右左両方の足を撃ちぬかれ、支えを失って床へと倒れる。
 回転式拳銃の達人が至る早撃ちの極限。オートマチックを超える速度でのクイックドロウ。
 日本に伝わる古流居合術の達人が抜刀と納刀を一瞬で行うように、回転式拳銃を極めた者は一度の銃声で二度発砲を行うのだ。

 両足を撃ちぬかれた女は尚も立ち上がろうと血を流しながらもがく。
 まだ腕が動く、目が見える、生きる意思がある。しかし、両足だけが全く言う事を聞かない。
 意思に肉体の行動が追従せず、結果立ち上がる前の赤子のような醜態を晒していた。

 倒れた女に、苗刀使いと槍使いの闘士が追いつく。
 女の両足を撃ちぬいた回転式拳銃使いは、片手で傷口を抑えながらよろりと立ち上がった。
 着弾した際の角度が浅かったらしく、負傷を与えてはいるが致命傷には至っていない。

 勝敗が決した。両足を撃ちぬかれた女は身動きが取れず、三人を相手取るのは不可能だ。
 対する闘士部隊は昨夜からの連戦で数を減らしながらもまだ三名の生き残りがいる。
 負傷しているとはいえ、今この場で女を処刑するのは容易い。
 
 奥歯を噛み締め、忸怩たる思いに身を震わせる。
 今ここで死ねば、今ここで殺されれば、自分が今まで行なってきた行為は全て意味を成さない。
 今日まで陵辱を、殺戮を耐えてきたのは生きる為という希望と目的があったから、だからどんな悪行にも非道にも手を染めた。
 女は対価を支払った。生きる為の対価を支払い続けた。
 それでもまだ足りないというのならば、腕でも足でも、臓物でも自分が支払える物を何でも支払う。
 この生命以外ならば何を犠牲にしてもいい。何を失ってもいい。
 だから今までの行為が決して無駄ではなかったと、そう思える結果をくれ。

 ――私は捧げる、この血を、この肉を、この心を。生きる為に全てを捧げる。

 掠れ声で叫んだ。誓約を、己の魂と交わす契を声にして叫んだ。
 生存の為に刻まれた戒律が女の中で力として機能を始める。
 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚に継ぐ第六の感覚。
 筋、血脈、肌肉、骨、皮を超えた第六の機能。

 誰もが持ちながらも、殆どの人間が目覚める事なく一生を終えてゆく力。
 この世の理を塗り替え、己が望むままに法則を支配する能力。
 人によってその形、在り方は変わってくる。当人限りの固有能力。

 ――彼女の場合、その力は『取引』という形で現れた。

 血を流しながら地べたをのた打ち回っていた女の姿が消え去り、紅い血潮だけが残された。
 女の姿は無い。残像すらなく、忽然とその姿を消してみせたのだ。
 代わりに、苗刀使いの闘士が一発の銃声と共に頭部を撃ち抜かれコンクリートの床に倒れた。
 隣に立つ槍使いの闘士が訳も分からず周囲を見渡し――続く二発目の銃声と共に眉間を撃ち抜かれ同じように倒れた。

 獲物である筈の女が消え、銃声と共に二人の仲間が倒れる。
 銃声がした方向はそれぞれ逆方向だ。まさか伏兵が居たとでもいうのだろうか。
 有り得ない話だ。女の仲間と女に味方をしそうな連中は昨夜から今日にかけての間に全て始末してある。
 第一九龍闘士部隊の構成員は全員が武術の達人であり、物音や気配というものはどんなものでも必ず捕捉する。
 白兵戦闘のプロフェッショナルである闘士部隊の構成員に気付かれる事なく侵入する事も、何処かに隠れる事も不可能だ。
 
 可能性。先に始末した女の仲間に息があった。否、首を落とし五体を分解し、海へ投げ捨てた。
 可能性。女が立ち上がり反撃を開始した。否、あの傷で逃走など不可能。ましてや一瞬で視界から消えるなど人間の動きではない。
 可能性。可能性。可能性。今に至る、この異常事態に至る可能性を模索し思案し詮索しなければならない。
 
 何が起こって自分は追い詰められているのか? 一体何に追い詰められて――。

 「早撃ちが得意なんだろうシェリフ。ならもう一度決闘しようじゃない」
 
 ぞっとする程冷たく、抑揚を欠いた声がそう告げた。気付けば闘士の背後には気配があった。
 唐突に背後へ『出現』した女によって硬い銃口が後頭部に当てられている。チェックメイトの通告だ。
 如何に早撃ちの名手といえど、背後から後頭部に銃を突き付けられた状態で、相手よりも早く撃つ事など出来はしない。
 もう一度、闘士は結果に至るまでの可能性を模索しようとしたが、あまりにも理不尽な現実にただ半狂乱になって笑うしかなかった。
 己を追い詰めた相手の『能力』に気付く事なく、女が放った銃弾によって頭部を撃ち抜かれ、最後の闘士が死亡した。

 九龍闘士部隊はここに壊滅し、戦いを制した瀕死の女だけが生者として倉庫の中に残された。
 だが出血は容赦なく女の命を蝕んでゆく。しかし女の命を蝕んでいるのは銃創による出血だけではなかった。
 両足に穿たれた銃創では説明がつかぬ程の血液が女の体内から失われていた。
 本来二十分以上掛けて傷口から溢れでる筈の血液は、ものの数十秒で致死量近くまで失われていたのだ。

 凍えそうな程寒い。身体に力が入らず再び床へと崩れ落ちる、視界から色彩が消え失せ霞んだ。
 女の身体から今まさに命が失われようとしている。
 自分が手にした力の意味を知る事なく、女は鈍化してゆく意識の中で音を感じた。
 波止場に押し寄せる波の音。寄せては崩れる波。それに交じる靴音。コンクリートの床を叩くヒールの音。

 一歩ずつ女の方へと近づいている。顔を上げようとするが叶わない。
 僅かに意識があるだけで、肉体の感覚は消え失せていた。誰かが、やって来る。
 誰かが自分の元へ……やって来る。









 女性の姿は、四つの死体が転がり、壁や床を鮮血で汚した決戦の舞台にはおよそ似つかわしくない出で立ちであった。
 英国大使館で開かれるような舞踏会でもまずお目にかかれないような豪奢な紫のドレス。
 装飾によって彩られているというのに、そのドレスはまるで重力が作用していないかのように軽やかだ。
 肉体はアンティーク砂時計のように繊細で、脚からウェストに掛けてが細く、胸の部分で膨らみ、肩に掛けてまた窄む。
 
 申し分の無い程魅力的な肉体を、絵画に登場するようなドレスで包み込んだ女性が歩くのは高級ホテルのレッドカーペットではなく、生暖かい血液で塗装されたレッドフロアだ。
 入口近くと倉庫中央に転がった四つの死体には目もくれず、女性はまだ辛うじて息がある女へと近づいた。
 血液を失い、意識は深い闇の中に落ちてはいるが、弱々しい鼓動と脈拍はまだ彼女が生者である事を証明している。

 にこりと、女性は満足気に笑った。見る者によっては名状し難い感情を催す、そんな笑顔。
 女性は笑顔のまま指を鳴らす。すると床に寝転がった女の身体が何もない空間へと吸い込まれ、血の跡を残して消え失せた。
 
「死ぬようならば資格はないと思ったけれど、まさかあの状況下で自らの能力を開花させるなんて。
 いえ、あの状況下だからこそ、というべきかしら。何方にせよ逸材である事に変わりはないわね」

 明瞭な声色で女性は独り言を発した。聞いているのは死体だけだ。
 口の利けない死人はただ黙って女の独り言を静聴する。

「あの子には才能は無いけれど能はある。目を付けておいて正解だったわ。
 あの子のような存在を今の私達は欲している。ただ一片の容赦もなく、命を刈り取る者を、ね」

 女性が懐から名刺を取り出し、先程まで女が寝転がっていた場所へと落とした。
 それが挨拶だと言わんばかりの行為だが、当然反応を示す者はこの場において誰一人存在しない。 

「お約束の荷物は確かに受け取りました。お代は結構、もう既にあの子が支払ったもの。自らの血でね」

 再び女性が指を鳴らすと、女性の眼前にあった空間が裂け『帰り道』が出来上がる。
 裂け目から除く空間には無数の目玉が浮かび、歪められた色彩によって無限の広がりをみせていた。

「それでは失礼致します。あの子には新しい仕事があるの。
 といっても、あの子の仕事は結果らしい結果を残さないという点に終始するのだけれど。
 もう知っているわよね? あの子戦いを見て、さっきまでのあの子を見ているアナタなら」

 最後に女性が語りかけたのは黙する死者達にではなかった。
 空間に生じた裂け目は女性をすっぽりと包み込むと、静かに閉じ、元の何もない空間へと戻る。
 倉庫の中に残されたのは四つの死体と女性が落としていった名刺だけだった。
 名刺にはこう記されていた。

 『ラフカディオ貿易会社 代表取締役:八雲紫』





――かくして、女は幻想へと至った。
――後に彼女は人間と妖怪が背中合わせに暮らす幻想郷で人と妖怪の狭間に立つ博麗の巫女として活動を始める。
――結末は既に明らかになっているだろう。彼女は何も残さず、誰にも記憶されずにその役目を終えた。
――だが彼女の到来により幻想郷は新たな始まりへと動き出す。